土曜日は合気道の新歓コンパ。
大学の合気道部の新人たちと甲南合気会の新人たちをお迎えして、「入り口だけがあって出口のない」この世界への参入を寿ぐのである。
集まった門人は数えて41名、それに取材に来て、そのまま宴会に巻き込まれて帰れなくなった産経新聞記者一名、これが12畳ほどのリビングと6畳の和室と2畳ほどのキッチンに押し込められる。
よく入るものである。
47名入ったのがこれまでのレコードだが、夏場にこれだけいると室内の熱気湿気は尋常でない。
設定温度16度、風量最大で二台のエアコンをフル回転しても、汗が出てくる。
その昔、まだ十数名で宴会をしていたころは、円卓を囲んで、全員で一つ話題についてじっくり話し合うということもできたのであるが、これだけの人数になると、うるさすぎて、三人向こうの人の声はもう聞こえない。
ヤベとクーを相手にごそごそLDの話をしていて、「そうかー、たいへんだよな学校も」というような話をしていたときには誰も耳を貸さなかったのに、ひとこと「ヤベ、もう家を出ろよ」と私がぽつりと言ったとたんに 5 メートル四方が無音となって、女子全員が耳ダンボ状態になる。
話題が多少とでもラブライフにかかわるように思われると(今の場合は別にかかわってないんだけどさ)、女子たちはそれまで絶叫状態でいたにもかかわらず、ぴたりと「聴いていなかった話」の続きを聞く体制になるのである。
気の感応力がそれだけ涵養されたと評価してよろしいのであろうか。
よくわからない。
全員が帰ったあとに、ビールの空き缶が30個、ワインのあき瓶が15本、生ゴミがゴミ袋3つ。冷蔵庫の中はほぼ空。
でも、ガスレンジがきれいに磨いてある。
日曜は昼まで寝ている。
昼から居合研究会の稽古。
定期的にさわっていないと本身の刀は怖くて抜けなくなるので、月一ペースで居合の稽古をしている。
身体運用一般にかかわる気づきが毎回ある。
このところの技法的課題は刀を止めるときに全身の構造的安定によって刀を止めるということである。
腕の力で止めていたのでは遠からず肘や肩に痛みが出る。
そういうデリケートな関節部に痛みが出ると、周囲の筋肉を硬くして、痛みを散らしてこらえるようになる。
しばらくはそれで済むけれど、何年か経つと、背中や腰の中など、直接関係ない部位に凝りが出て、やがて激痛を発するようになる。
痛みを覚えると、私たちはすぐに痛みをこらえて身体感覚を鈍感にするという安易なソリューションに訴える(そんなことをしても痛みは消えない。潜伏するだけである)。
身体感覚をできる限り鋭敏に保つことを生命線とする武道において、これは自殺行為である。
痛いのは身体の使い方が間違っているからである。
どこにも痛みも出ないように身体を使うための条件として、重く扱いにくい刀は与えられている。
刀がある位置にある軌跡をある速度で移動してきたことによって、身体全体の安定性が最大になるような刀の動き方を探す。
はじめるときりがない。
汗びっしょりになって家にもどる。
お風呂に入ってすこし昼寝。
江さんの講談社新書のゲラが届くので、読み始める。
解説を書かなくてはいけないのである。
『「街的」の構造』というタイトルを思いつく。
どこかで聞いたようなタイトルだと思ったら、九鬼周造だった。
本棚から『「いき」の構造』を取り出して何十年ぶりかで読んでみる。
昔は七面倒な本だと思っただけだったが、いま読み返してみるとまことに面白いことが書いてある。
「いき」と「野暮」という美学上の対立概念は抽象的なものではなく、具体的なものであり、モノに即してしか記述することができないと九鬼は書いている。
そうだよな、と思う。
それはいかなる外国語にも対応する語をもたない。
フランス語の chic や élégant には「いき」に含まれるエロティックな含意や宗教的諦念が含まれない。
江さんの「街的」は九鬼や成島柳北(『柳橋新誌』)の時代に「粋」という形容詞で総括された美的感覚に近い(近いけれど違う)。
これもまた外国語に対応する語をもたないものであろう。
「街的」は urbane でもないし、elegant でも courteous でも refined でもない。
そうか、江さんは「街場の九鬼周造」だったのか。
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(2006-07-10 16:28)