消費税なんか怖くない

2006-07-07 vendredi

消費税を払わなくていけない事業者になってしまったらしいという話を書いて、泣き言を並べていたら、いかなる天の配剤か、単位に「円」がつくと四則計算が不自由になる私のもとに神は税理士をお遣わし下さった。
かつて強度のマニュアル失読症であり、PCのメカニズムまったく理解しておらず(する気もない)にもかかわらず、最先端のIT環境で仕事をしたいと詮無いことを言っていたら天は私にIT秘書を遣わした。
なんでも言ってみるものである。
今回、あんなことを書いたら、さまざまな方が噛んで含めるように「あのね、消費税っていうのはね・・・」とご説明のメールを送って下さった(世界はよい人ばかりである)。
だが、その中に私の理解力がこと税務に関するときにどれほど低調になるのかを熟知して、小学生にもわかるような説明をしてくださった方は一人しかおられなかった。
その税理士の方はかねてより私の本やブログを読まれて私の財務処理能力の病的な低さに心を痛めていたのである。
その方のことばが私を感動させたのは、「あなたはわかんなくてもいいんです」という「無能に対する寛容さ」が伏流していたからである。
これは私のIT秘書たちにも共通するところの美質である。
「こっちでやっときますから、センセイはその辺で昼寝しててください」という彼らの甘言によって私の魂は久しい安寧を享受してきた。
私はそれでよいと思っている。
「餅は餅屋」「蛇の道は蛇」「好きこそものの上手なれ」と多くの俚諺が教えている。
ひとりひとりおのれの得手については、ひとの分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意なひとにやってもらう。
この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。
自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。
自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱりわからない。
それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。
私は自分で生活費を稼いでいるし、身の回りのことはだいたい一人でできるけれど、そんなことを少しもよいことだと思っていない。
できることなら私の代わりに誰かがお金を稼いでくれて、ご飯も作ってくれるし、洗濯もアイロンかけも、ゴミ出しもトイレ掃除も全部してくれる状態が来ればいいなと思っている。
だって、そうすれば、私は別の誰かに代わってお金を稼いだり、ご飯を作ったりゴミ出ししたりできるからである。
自分がしなければいけないことを誰かがしてくれるので、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを代わりにやってあげる。
それがレヴィナスの言う pour autre(他者のために/他者の身代わりとして)ということの原基的な形態だと思う。
それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。
I cannot live without you
というのはたいへん純度の高い愛の言葉である。
このyouの数をどれだけ増やすことが出来るか。
それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると私は思う。
幼児にとってこのyouはとりあえず母親ひとりである。
子どもがだんだん成熟するに従って、youの数は増えてゆく。
ほとんどの人は逆に考えているけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数が増えることが「成熟」なのである。
「その人がいなくれば生きてゆけない」と思える人の数の増加と、当人の社会的能力と生存確率の向上はあきらかに正の相関をなしている。
それは I cannot live without you という言葉が相互的なものだからだ。
というか、その言葉が相互的に機能しないと思えるような相手に対して私たちは決してそんな誓言を口にしないからだ。
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