おとめごころを学ぶ

2006-07-05 mercredi

オオコシ青年が来る。
オオコシ青年は魔性の女フジモトも学んだという『宣伝会議』のライター養成講座を仕切っていて、一度そちらの講演にお呼ばれしたことがある。
今回は『編集会議』のお仕事。
青年は聞き上手なので、一時間半、思いつくままにしゃべり続ける。
若いライター志望の人に読書上のアドバイスをひとことと頼まれたので、次のようなことを申し上げる。

できるだけ今の自分と生きた時代も生きた場所も縁の遠い人間の書いた本を読むこと。
世界観も宗教も感受性も身体感覚も、まるで違う人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振するものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間にとってかなり汎通性の高いもの」だということである。
ある種の書物が歴史の風雪に耐えて何千年、何百年と生き残ってきたのは、そのような共振力が他に比して圧倒的に多いからである。
古典的名作というのは「とっつきにくく」て、同時代の同じような年齢で同じような立場で似たような趣味好尚の書き手が書いたものは「わかりやすい」というのは嘘である。
同時代的な意味で「わかりやすい」書物は構造的に読者を排他的に限定している。
その「敷居の低さ」は、時代を異にし、場所を異にし、立場を異にする読者にとっての「わかりにくさ」を際限なく高めることを代償にして得られた幻影にすぎない。
古典を読むことで学ぶことができるのは、数百年の時間と数千キロの距離を隔ててなおリーダブルであるようなものを書いた人間の「リーダーフレンドリーネス」である。
私はいつもそれに驚嘆する。
もう一つ。若い男性の書き手に望みたいのは、早い時期に「少女小説」を読むことである。
『若草物語』や『赤毛のアン』や『愛の妖精』をなるべく早い時期に読むことがたいせつなのは「少女の身になって少年に淡い恋をして」ぼろぼろ涙ぐむというような感受性編制はある年齢を超えた男性には不可能になるからである。
そのような読書経験を持たなかった少年はそのあとにさまざまなエロス的な経験を積み、外形的知識を身につけても、「前思春期の少女の恋心」に共振して泣くことはむずかしい。
でも、それは物語のもたらす悦楽の半分をあらかじめ失っていることなのである。
『冬ソナ』を見て泣くためにはユジンに同一化してチュンサンに恋をしないといけないのであるが、ほとんどの男性はこれができない。
子どものときに少女になって少年に恋したことがないので、その「やりかた」がわからないのである。
若い女性の書き手の場合は、同じ理屈で、老いた男性作家の書いたものを読むことで共振感覚を育てることができる。
若い男の書いたものなんか読む必要はない(だってバカなんだもん)。
幸い(なんていうとフェミニスト文学研究者に殴られるが)文学のカノンはだいたい老いた男性作家によって書かれているし、これはいつ読んでも「もう遅い」ということはない。
現代日本ではこの非対称性が圧倒的なものになっている。
それが結果的にものを書いたり編集したりする仕事における女性のアドバンテージを担保しているのである。

久しぶりのオフなのだが、メールで対談原稿の校正がまとめて三つも来たので、朝からばたばたしている。
毎日新聞の紙面研究、東京新聞のイラク派兵問題、情報労連のインタビュー。
校正すると、どれも字数がオーバーする。
「書きスケ」(@江弘毅)の悪い癖で、どうしてもよけいなことを書き足してしまうのである。
毎日新聞の紙面批評は24行もオーバーしたと社会部長からご指摘がある。
そちらで適当に削っちゃっていいですとお願いしたら、「筆が滑った」ところだけをきっちり24行選んで削ってくれた。
さすがプロの仕事。思わず感動してしまった。
8日(土)に毎日新聞に掲載された日に「削除前ヴァージョン」をブログで公開するので、ぜひ紙面と読み比べて頂きたい。
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