合気道のお稽古のあと、東京新聞の取材。
お題は「イラク派兵の総括」である。
どうして私にイラク派兵の政治的総括を述べる識見があると思われたのか、理由がわからないが、先方が「お訊きしたい」というのに「何も考えていません」というのも失礼なので、コーヒーを飲みながらあれこれ駄弁を弄する。
『街場のアメリカ論』でも『九条どうでしょう』でもくり返し書いていることだが、日本の世界戦略は「日米同盟を強化することを通じてアメリカから離脱する」というトリッキーな構造をもっている。
日本がアメリカの軍事的従属国という屈辱的地位から抜け出す方法を「リアリスト」の政治家たちはひとつしか思いつかない。
それはアメリカに徹底的に臣従することによって、アメリカのから信頼を獲得し、「では日本は自立してよろしい」という「許諾」を頂くという「暖簾分け」のポリティクスである。
「従属することを通じて自立を果たす」というこの戦略が他の国々からどれほど没論理的なものに見えるか、日本人はまったく理解していない。
先年、日本の安保常任理事国入りに世界のほとんどの国が冷淡な対応をしたのは、「単にアメリカの票が一つ増えるだけだから」という理由からであった。
それに対して「いや、それは違う。日本はアメリカに対しても反対すべきときは反対する」と言って、「例えば・・・」と説得力のある事例を挙げることのできた政治家も外交官も存在しなかった。
「アメリカに従属する」ことを持続可能な唯一の外交戦略だと信じているような国を「一人前」の国として遇するような国は存在しない、という平明な事実を痛苦に受け止めている政治家も外交官も存在しないということが「日本が一人前の国ではない」ことの紛うかたなき証拠である。
しかし、現実がこうである以上、「誰の責任だ」と言っても始まらない。
どうして「こんなふう」になってしまったのか。これからどうなるのかを語らねばならない。
私が見るところ、直接の原因はアメリカの(具体的にはマッカーサー元帥の)かけた「呪い」である。
マッカーサー元帥は戦艦ミズーリでの連合国への降伏文書調印の四日後、九月十二日の記者会見で「日本はこの戦争の結果、四等国に転落した、日本が再び世界的強国として登場することは不可能である」と断言した。
これは五十一年に上院軍事外交委員会で述べた日本人の精神年齢は「十二歳」という評言とともに、日本人の深層にトラウマ的ストレスとして刻み込まれた言葉である。
この「四等国」と「十二歳」の呪いは私たちが思っている以上に深い。
そして、日本人はこの「目に見える呪い」のほかにもうひとつ「目に見えない呪い」をこのときにかけられた。
この「目に見えない呪い」の方がおそらく政治的にははるかに重要なものだ。
それは「呪いはそれをかけた者によってしか解除できない」という呪いである。
「アメリカによってかけられた呪いはアメリカによってしか解除できない」
「日本はもう四等国ではない。日本は世界の一等国である」「日本はもう十二歳ではない。日本は国際社会の成熟したフルメンバーである」という宣言をアメリカに下してもらうことによってしか、呪縛は解けない。
日本人はそう信じてしまった。
この信憑から「従属を通じて自由になる」という日本的ソリューションが生まれてきたのである。
この歪んだ理路は日本人にしかわからないだろう。
50-60年代の左翼主導の民族解放闘争(反米闘争)が結果的に挫折したことの大きな原因は、それが「アメリカによってかけられた呪いは、アメリカと同じくらいの呪詛力をもつ魔術師(具体的にはソ連または中国)によって解除してもらうことができる」という同型的な思考を繰りかえしていたことに古典左翼の人々が無自覚だったからである。
「依存を通じてしか自立は果たせない」という思考のルールは左右の日本人を深く共軛していたのである。
むろん、「呪いの自己解除」の試みがなかったわけではない。
60年代の「新左翼」の思想はその萌芽だったし、80年代の経済力による「アメリカ侵略」もそうだったし、ある種のナショナリストが夢見る「自主核武装」もその流れに連なるものだ。(学生時代に新左翼で、そのあとトヨタに入社して、今小沢一郎に期待している中年男がいたら、それは「呪いの自己解除」を求める日本人の一典型だと言ってよい)。
改憲運動の狙いは要するに九条二項を廃して、アメリカの海外派兵に自衛隊を差し出すことができるようにするということである。
戦後60年間これほどアメリカに尽くしてきたのにまだ「自立」を認められないのは、「アメリカのために日本人が死んで見せないからだ」と思い込んだ政治家たちの結論である。
もちろん日本人兵士がいくら死んで見せてもアメリカは日本にかけた「呪い」を解く気はない。
だって、先方にははなから「呪い」なんかかけた気がないんだから。
かけてもいない呪いをどうやって解除したらよいのか。
だから、どれほど日本人が忠誠を尽くしてみても、事態はまったく変わらない。
それでも日本人はアメリカに尽くし続けるだろう。
そして最後には「ここまで尽くしてもなお信じてくれないなら、こうなったら日本はアメリカのために滅びてみせましょう」という歌舞伎的=『総長賭博』的なカタルシスを迎えることになる。
日本人は「こういうの」がたいへん好きだ。
改憲運動に伏流する情緒は「心中立て」である。
アメリカの牛肉輸入再開の報道を読んで、そう思った。
合理的に考えると、これはありえない政策決定である。
米国の食肉カルテルの利益確保のために日本人の命を差し出すんだから。
これを説明できるロジックを私はひとつしか思いつかない。
日本人はアメリカ産の牛肉を食べて死にたいのである。
死んで見せて、「これほどまであなたを信じていたんです・・・」と血を吐きながら絶命したいのである。
もちろんそのまま死ぬわけではない。
それからおもむろに「化けて出る」のである。
日本人が心の底から欲望しているのは一度は「アメリカに心中立て」して死んでみせ、そのあと亡霊となって蘇り、アメリカを呪い殺すことだからである。
これはほんとうである。
呪われた人間はもちろん「呪いを解いて下さい」と泣訴する。
けれども、それで「呪いをかけた者」に対する鎮めることのできない憎しみがなくなるはずのものではない。
というような話をする。
どうやったら社会面の記事にすることができるのか、ひとごとながら心配である。
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(2006-07-02 12:13)