柳川センパイのこと

2006-07-01 samedi

フランスに行く前になると「特訓」というものをする。
ふだんほとんどフランス語を使う機会がないので(文法の授業は持っているが、あれはどう考えても「フランス語を使う機会」ではない)、二ヶ月くらい集中的にフランス語の「おさらい」をするのである。
ひとつは会話で、これは日常会話のCDをひたすら聴く。
もうひとつは作文で、その日の「天声人語」の仏訳をする。
ところが去年の暮れに朝日新聞から毎日新聞に替えたので、今年は「天声人語」ではなく、「余録」を仏訳することになる。
この「余録」というのがなかなか毎日テイストな抑制の利いたよい論説である。
外国語に訳すのはかなりむずかしそうだなと思って毎日読んでいた。
誰が書いているのか知らなかったが、今朝の新聞を読んでいたら、「余録」が単行本化されていて、広告に筆者の名前が出ていた。
柳川時夫である。
あ、柳川センパイだったんだ。
柳川くんは東京都立日比谷高校雑誌部の一コ上の先輩であり、東京大学教養学部の歴史研究会での先輩でもある(駒場の歴研には田島正樹先輩もいた。今思うと豪華なラインナップである)。
雑誌部の部室で一学年下のぼくや小口勝司くんや塩谷安男くんを相手によく遊んでくれた、面倒見のよい先輩であった。
田園調布育ちのシティボーイで、VANのシャツを着てテニス・ラケット片手に登校し、志賀高原のクラブ合宿のときはギターを背負ってきた(「小林旭ですか?」と言ったら貸しボートのオールで殴られた)。
話題は文学、政治、哲学、サブカルチャーと幅広く、一度話し始めるとワントピックで1時間くらいノンストップということがよくあった。
午後遅く部室で難しい顔をして本を読んでいたので、カントとかヘーゲルとかを読んでいるのかなと思って表紙を見たら、五味康祐の『麻雀教室』だった。
東大に合格した日に家が火事になって、焼け出されて自由が丘のマンションに逼塞しているときに小口くんとお見舞いにいったことがある。
「合格おめでとうございます」と「火事見舞い」を同時にしなくてはいけないので、ぼくたちも当惑したが、柳川くんも喜んでいるような困っているような片づかない顔をしていた。
駒場のころは党派のデモでよく会った。ときどき長い時間話をした。
いま新潟の三条に戻った久住先輩といっしょに麻雀もよく打った。
法学部を出て、毎日新聞に入ってからはご縁がなくなって、卒業してからはたぶん一度しか会っていない。
ずっと後になってぼくは毎日新聞から二冊本を出すことになった。
毎日新聞の人たちからたくさん名刺をもらったが、柳川くんとは出会わなかった。
先日毎日新聞の紙面研究会に出たときも、「もしかしたら柳川センパイが来ているんじゃないかな・・・」と期待していたのである。
もう辞めちゃったのかなと思っていたら、今朝ひさしぶりに名前を見てなんとなくうれしくなって、むかしのことを思い出した。
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