緩和医療学会と i-pod と『土蜘蛛』

2006-06-26 lundi

土曜日は緩和医療学会というところのシンポジウムに出る。
お題は「わかりあうケア」。
緩和医療というのは、余命数週間、数ヶ月という回復の可能性のほとんどない患者の末期における心身の苦しみをどうやって緩和するかというたいへんシリアスな課題を背負った医療のことである。
今回の神戸の学会には4600人が集まった。
緩和医療が、それだけ現代において喫緊な医学的課題だということである。
シンポジウムは医師、看護師、臨床心理士、それぞれ三種の専門家と「シロート」ひとりという組み合わせで行われた。
私がどうしてそのような場違いなところに呼ばれたかというと、『死と身体』という本で、死者とのコミュニケーションということを論じたのが、末期医療の一部の従事者の間に共感を獲得したせいらしい。
人間は死者ともコミュニケーションできるというか、死者とのコミュニケーションこそが人間的コミュニケーションの原型である、というのが私の考えである。
だって、人間以外の動物は死者とコミュニケーションしないからである。
葬儀というものを行うのは人間だけである。
「正しい葬送儀礼を行わないと死者が祟る」という信憑を持たない社会集団は存在しない。
「祟り」というのはすでにして(ネガティヴなかたちではあるけれど)死者からのメッセージである。
「死者がもたらす現実的効果」と言い換えてもいい。
「正しい葬送儀礼」を行うと、死者は「去る」。
「葬送儀礼」を誤ると(あるいはネグレクトすると)、死者は「戻ってくる」(「幽霊」をフランス語では revenant 「再帰するもの」と言う)。
そして、「正しい葬送儀礼」、つまり死者をして去らしめる唯一の儀礼とは、死者を忘れることではない(その点でサンヒョクは誤ったのである。「サンヒョクって誰?」という方はこの部分はスルーしてね)
正しい喪の儀礼とは、「死者があたかもそこに臨在しているかのように生者たちがふるまう」ことなのである。
手を伸ばせば触れることができるように、語りかければ言葉が届くかのようにふるまうことによって、はじめて死者は「触れることも言葉が届くこともない境位」に立ち去る。
死者に向かって「私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約することによって、死者は生者たちの世界から心安らかに立ち去るのである。
というふうに私たちは信じている。
この逆立したコミュニケーションの構造が人間の人間性を基礎づけている。
コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合うものたちの間でのみ成立する。
「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」(solicitation) がコミュニケーションを先へ進める。
「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。
それは恋愛の場面で典型的に示される。
「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、それは言い換えれば「あなたのことがよくわからない」ということである。
論理的に言えば「よくわからない人間のことを愛したりすることができるのだろうか?」という疑問だって「あり」なのだが、そんなことを考える人間はいない。
逆に、「あなたって人間がよくわかったわ」というのは愛の終わりに告げられることばである。
「あなたって人間のことがよくわかったから、結婚しましょう」というように言葉が続くことはない。
それと同じく、逆説的なことだが、コミュニケーションは「それがまだ成立していない」と宣言することで生成し、「それはもう成立した」と宣言したときに消滅するのである。
喪の儀礼も同一の構造を有している。
それは死者に向かって「あなたはまだここにいる」と伝えることによって死者を「ここではない場所」に送り出す機制なのである。
私たちは全員が「潜在的死者」である。
だから、葬送儀礼を生者の側において執り行うときに、私たちは「安らかに死ぬこと」とはどういうことかを先取り的に経験している。
「あなたはまだここにいる」と生者たちから告げられたときに、「私は安らかに死ぬだろう」
そういう信憑を私たちは幼児期から繰り返し刷り込まれている。
この信憑から個人的な決断によって逃れることはできない。
「オレはそんなのやだよ」と言ってもはじまらない。
この信憑が人間の人間性を基礎づけている「原型」だからである。
死者に対して「あなたは生きている」と告げることばは、それが真実な思いからのものであれば、「死者に届く」。
私のこのふるまいは死者を慰めるか?
私のこのことばを死者は嘉納するか?
私からのメッセージは死者に正しく伝わるか?
そのような問いをもって生者たちはその生き方の規矩としている。
死の淵を覗き込んでいる人間に必要なのは、おそらく「死んでもコミュニケーションは継続する」ということへの確信であろう。
数十万年前に人類の始祖たちがこのような信憑を採用して、それを社会制度の基礎に据えたのは、それが万人に例外なく訪れる死を苦痛なく受け容れる上でもっとも効果的であるということを知ったからである。
私はそんなふうに考えている。

というような話はもちろんシンポジウムではしなかった。
今ごろになって思いついたのである。

緩和医療学会の会場で、I学書院のS本くんに会う。
S本くんはT居くんといっしょに数年前、「看護学雑誌」の取材で私のところに来た若い編集者である。
そのときは「インフォームド・コンセント」の是非とナースの医療的機能について、素人考えを好き放題にしゃべった。
それがナースのみなさんの琴線に(「逆鱗に」ではなく)触れたらしく、それ以後、看護関係者からは「ウチダというのは、素人にしてはなかなかもののわかった人間だ」という評価を頂いている、そのきっかけを作ってくれた編集者なのである。
一緒に三宮まで帰る。
ちょうどイワモト秘書と「鰻」を食べる計画があったので、合流することにする。
どうして秘書と「鰻」を食べることになったのかについては感動の涙なしには語り得ない佳話があるのだが、もちろんそんなことはここでは公開できないのである。
いつもの「江戸川」で生ビールを飲んで、「おひつまぶし」を食べる。
だんだんここの鰻も「味が決まってきて」、美味しさが増してくる。
「味が決まる」というのは調理の出来不出来ことではなく、食べる私の側の「このような食感、このような歯触り、このような温度、このような盛りつけ、・・・のものを食べるという期待感」と出てくる料理の間の齟齬がなくなるということである。
「味が決まる」というのはかの内田百閒先生の言葉である。
それほどのものではなくても同じところに足繁く通ううちにだんだん美味しく感じられるようになるというのは私の経験的確信である。
かつて予備校講師時代に私は週二回高円寺の駅前のカレー屋で「チキンカレー、辛口、ご飯大盛り」というのを食べていた。
3年くらい食べ続けたら、もうそこのカレーなしではいられないカレー中毒になった。
そこまで症状が進むと、小走りに駆け込んだカレー屋で最初のひと匙を口中に投じるときの極快感はもう言語を絶し、背筋に戦慄が走るほどのものとなるのである。
私のカレー屋通いを怪しんだ予備校生たちはそのカレー屋を訪れて同じものを食したが、全員が「うまくねーよ、先生」と肩を落としていた。
そういうものである。
江戸川の「おひつまぶし」が美味くないという意味ではない。

鰻を食したのち、わが家に移動して、甲野善紀先生の「世界でいちばん受けたい授業」を見る。
甲野先生のあとは茂木健一郎さんが出てきたので、ひさしぶりにテレビのヴァラエティ番組を最後まで見てしまった。
そのあとイワモト秘書による i-pod の使い方講習会。
そう、私はついに i-pod を購入したのである。
この手の電子ガジェットに私はわりと目がないのであるが、i-pod は何となくご縁がなく日々を過ごしていたが、先般の四社会談のおりに、石川くん、兄上さらには平川くんまでが持参の i-pod を取りだして、それぞれの自慢の音源をスピーカーで増幅して聴かせてくれた。
これが円丈の落語のあとにボビー・ヴィー、そのあとにモーツァルトというめちゃくちゃなコンテンツ。
石川くんと兄上が i-pod を持っているのは当然のこととしてスルーしていたのであるが、平川くんが持っているというのが許せなかった。
「許せない」というのは「やめろ」ということではなく、「看過しえない」とか「黙許が与えられない」という意味である。
どうして個別平川くんの i-pod に対してのみそのような激しい模倣欲望を感じたのか、その理由は幼児体験にまで遡らないと説明できないが、とにかく「平川が持ってるなら、オレも買うぞ!」と突発的に思い立って、秘書に i-pod の買い入れとレクチャーを指示したのである。
これはまたよくできたガジェットである。
何しろネットで音楽が買えるのである。
「何か買ってみますか?」と秘書に促されて、60年代ポップスをスクロールしているうちに、思わずハーマンズ・ハーミッツの「朝からゴキゲン」を買ってしまう。
買ってから「しまった」と思う。
生まれてはじめてインターネットでダウンロードした音源がハーマンズ・ハーミッツとは。
取り返しのつかないことをしてしまった。

明けて日曜日は下川正謡会の歌仙会。
自分の出番の『山姥』と『土蜘蛛』の他に素謡『砧』、『求塚』、『卒塔婆小町』、『恋重荷』と仕舞の地謡がついているので、ほとんど舞台に出ずっぱりである。
『山姥』はやや声がうわずってしまい、二段落としがうまく回らなかったところがあったけれど、なんとか最後まで詞章は間違えないでゆく。
『土蜘蛛』は素がちゃんと飛ぶかどうか心配だったけれど、無事に四つとも飛んで、頼光が蜘蛛の巣まみれになって刀が納刀できないほどでやんやの喝采。
そのまま付祝言『高砂』で締め。
相生の松風颯々の声ぞ楽しむと謡い終えて、やれやれ。
冷たいビールで乾杯して、忙しい週末が終わる。
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