与ひょうのロハス

2006-06-09 vendredi

「ロハス」ってご存じだろうか?
以前『ソトコト』という雑誌にインタビューされたことがあって、そのときに「どんな雑誌なんですか?」と訊いたら「ロハス系です」と言われた。
意味わからなくて、「ロハスって何ですか?」と重ねて訊いたら、「あのですね・・・」と説明してもらったことがある。
そのときの説明をうかがって、漠然と「ソフト・エコ」というか「アウトドア志向」というか「自然派」というか、そういう記号的なものにからめて新しい消費ニーズをつくり出そうという(広告代理店が一枚噛んだ)マーケティング戦略の一つなのかと思っていて気にしなかった。
その後、ゼミでロハスについての発表が続いたので、ちょっと考えてしまった。
ロハスというのは LOHAS(Lifestyle of Health & Sustainability)「健康で持続可能なライフスタイル」というものである。
10年ほど前にアメリカで新しいライフスタイルとして提唱されたものである。
オーガニック食品を食べ、ヨガや瞑想法をし、木造りの家に住み、週末には自然に親しみ、フローベールを読みながら、モーツァルトを聴くような生活のことらしい。
流れとしては60年代のヒッピー・ムーヴメントやニュー・エイジやエコロジーと同一視されそうだが、政策的に重要なのは「sustainability」の一語である。
「持続可能な生活」というときの「持続可能」というのは何のことか。
「毎朝五時に起きて、乾布摩擦をする」というような生活プランをだらけた都会人が立てても「三日と続かない」という意味での「持続」のことではない。
「持続可能」を求められているのは「人間」ではない。
持続可能性が問われているのは「環境」である。
地球環境がこのまま持続できるように、環境を破壊する大量消費大量廃棄型の生活は慎みましょうというご提言なのである。
いい話じゃないか、とみなさんも思われるだろう。
たしかに「いい話」だ。
でも、ただの「いい話」に電通は噛まない。
電通が噛むのはそこにビジネス・チャンスがある場合だけである。
「人間にやさしく、環境にやさしく」というのがロハスのスローガンである。
これはエコロジーと違う。
ディープ・エコロジーは「人間にやさしく」ということをあまり(ほとんど)考慮しない。
エコロジカルにたいせつなのは地球環境であって、地球のためならできれば人類は存在しない方がいい、というのがヘビー・ディープ・エコな考え方である。
私はこの考え方は一理あると思う。
少子化傾向とかジェノサイドというのはどこかに「人類なんかいなくなった方がましだ」という虚無的な欲望を伏流させていて、その点ではディープエコに通じている。
しかし、そう言われてはわれわれ人間どもの立場というものがない。
電通だってトヨタだってソニーだってマクドナルドだって、人間がいなくなったら困る。
商売にならないからだ。
人間の頭数は多ければ多いほど商売になる。
これは資本主義の基本原則である。
しかるにあまり人間の頭数が増えると、地球はそれだけの人口を支えきれなくなり、人間的秩序が崩壊する。
水がなくなり、食い物がなくなり、お互いに出会い頭に相手ののど笛に食いつくようになっては資本主義も市場経済もない。
どこかで資本主義の要請する市場の無限拡大をおしとどめ、地球環境の破壊を停止しなければならない。
資本主義をおしとどめるためには一つしか方法がない(もう一つマルクスが考えたものがあるのだが、これはうまくゆかないことが歴史的に証明されてしまった)。
それは「あまり金金と言わない方が儲かりまっせ」という逆説的処方である。
リソースが有限である世界では、資本主義は過度に資本主義的でない方が安定的に機能する。
サラ金の取り立て屋たちが債務者を囲んで殺気立っている時に、訳知りの金貸しが「ちょっと待って下さいよ。ここでこいつをぶち殺しちまったんじゃ元も子もありません。どうですみなさん、こいつをしばらく生かしておいて、少しずつでも借金を返させた方が結局はお得なんじゃないないですか?」というのと同じ理屈である。
「持続可能」というのはそういうことである。
地球環境も「生かしておいた方が結局はお得」だから、生かしておくことにしようということでアメリカの業界のみなさんが衆議一決されたのである。
問題は「どうしてアメリカが?」ということである。
それはあまり知られていないことだが、アメリカの環境が危機的状況になりつつあるからである。
北米大陸はご存じのとおり「新世界」である。
近世に至るまで、あの宏大な土地にほとんど人間がいなかった。
だからヨーロッパ人はアメリカを見てびっくりした。
手つかずの自然というものを15世紀のヨーロッパ人は見たことがなかったからだ。
西ヨーロッパには森というものがない。
フランスにもイギリスにもない。
全部切り倒してしまったからである。
ペロポネソス半島はかつて深い緑に覆われていた。
今は岩山にオリーブが寒々と生えているだけである。
古代の製鉄が大量の燃料を要求したために、ギリシャ人がみんな切り倒してはげ山にしてしまったからである。
だから、北米を見たときのヨーロッパ人の感動は深かった。
「ここには神が創造したままの原初の自然が残っている」と彼らは思った。
シャトーブリアンを読むと、ロマン派の詩人の目に北米の自然がどれほど神々しいものに映ったかよくわかる。
で、その神々しい自然を見てどうしたかというと、彼らは「これを破壊し尽くすのに、たっぷりあと1500年くらいはかかる。ばんざーい」と思ったのである。
だったら遠慮はいらない。
アメリカ開拓のフィーバーはほとんど「狂気」というのに近いものであった。
開拓民たちは「荒野」を開拓し(それは要するに森林を消滅させるということである)、何年もかかってつくりあげた開拓地を棄てて、次の「荒野」へ向かった。
そして、わずか数十年で大陸を横断して、太平洋までフロンティア・ラインを伸ばしてしまった。
これはトックヴィルならずとも「ある種の狂気」という他に形容のしようがないだろう。
彼らは「破壊しても破壊しても破壊しきれないほど豊穣な自然」を前にして病的に興奮してしまったのである。
そのメンタリティはそのあともずっとアメリカ人に取り憑いている。
フロンティア・ラインの消滅の後、アメリカ人が向かったのは太平洋の反対側の小さな列島であった。
そこの囲みを砲艦でこじあけ、原爆を落として紙と木でできた文明を破壊し、その次には朝鮮半島の半分とインドシナ半島の半分を焼き払った。それからアフガニスタン、イラクとアメリカの破壊のフロンティア・ラインは西漸を続けている。
この「アメリカの西漸」を説明するために国際政治のスキームなんか使ってもあまり意味がない。
「西へ向かって、自然を破壊せよ」というのは最初に北米大陸を見たときのヨーロッパ人に点火され、それ以来消えたことのない根源的欲望なのである。
そうやってアメリカは自然を破壊してきた。
それでも北米では200年にわたって、破壊しても破壊しても尽くせないほどに豊穣な自然を人々は享受していた。
それがそろそろ「おしまい」になってきた。
地下水を汲み上げてスプリンクラーでじゃあじゃあ撒きちらすというアバウトな農業を100年やったら、ロッキー山脈の麓ではとうとう表土が流出して塩が出てきたのである。
牧畜というのはそれよりもっと環境破壊の激しい営為である。
牛一頭が育つためには膨大な量の植物が消滅する。
アメリカの牛肉が安いのはそこで消滅した「膨大な量の植物」のコストをゼロにカウントしているからである。
破壊された植生が再生しなくても、「じゃ、次行こう」でまるでオッケーだったのである。
そうやって200年やってきて、アメリカのさすがに豊穣な自然も砂漠化し始めてきた。
そりゃそうだろう。
自然破壊した分を商品のコストから控除して国際競争力を確保してきたんだから。
『夕鶴』の織物の国際競争力が強かったのは「つるの生命の減耗」というコストを「与ひょう」がゼロ査定していたからである。
アメリカがしてきたことは「与ひょう」のそれと同じである。
まあ、そんなこんなでアメリカも「これではマズイ」ということに気づいて、大量生産・大量消費・大量廃棄の文化を少しスピードダウンすることになった。
けれども、いきなり自然破壊を止めるわけにはゆかない。
それぞれの業界にはそれぞれの「お立場」というものがある。
というわけで、「人間にやさしく、環境にやさしい」(より厳密に言えば「資本主義にやさしく、環境にもやさしい」)ライフスタイルをアメリカ人は模索することになったのである。
何となく「もう手遅れ」じゃないかという気が私はする。
自然を破壊することをナショナル・アイデンティティの基盤に組み込んでしまった社会集団がそれを否定することは、彼らの存在そのものの否定につながるからである。
「本当のことを言うと、私たちの祖先は北米大陸に来るべきではなかった」ということをアメリカの多数が認めるようになったら、アメリカにもアメリカの自然にも再生のチャンスはある。
「ロハス」がその予兆であればよいが、たぶん、違うだろう。
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