ピンの話芸で3時間

2006-06-02 vendredi

大学院のゼミにNTT出版のM島くんが来る。
ついでに『街場の中国論』のゲラも持ってくる。
これは去年の大学院のゼミでやった中国論を活字化したものである。
今年中には出したいとのご意向である。
このペースで行くと、今年度の『街場の現代日本論』(変なタイトル)は来年中には本になることになる。
ゼミをやるたびにそこでのおしゃべりが翌年本になるというのは、素材を「骨までしゃぶる」資源収奪の見本のようなやり方である。
もちろん、院生聴講生たちにとっても教化的な効果をもつ。彼らが選んだ論題が面白くて、そこでの議論が盛り上がればそれがいずれ一章を構成することになるが、ゼミがあまり盛り上がらなかった場合は静かに無視されるからである。

今回はI倉くんから「民主主義」についてご発題いただく。
例によってぜんぜん関係ない話に逸脱していって、9月の自民党総裁選の結果について、日本型民主主義の原理に基づいて「福田康夫で決まり」という予測にたどりつく。
日本型民主主義というのは、合意形成の結果がもたらす「パフォーマンス」の良否よりも、合意形成プロセスにおける手続き上の「フェアネス」を重視する。
この「フェアネス」ということばを多くの人は誤解しているようだが、日本社会における「フェアネス」とは、成員が同一の規範の前での平等の恩恵に与るということではない。そうではなくて、「全員が平等の不平を分かち合う」ことである。
きわだった受益者が出ないような裁定を下すこと。
誰もその結論に十全の満足を得ることが出来ないような結論を導き出すこと。
ステイタス・クオに対する不満度において、全員が同程度であること。
これが「三人吉三」以来の日本の伝統的ソリューションである。
安倍晋三が選ばれないのは、彼が選ばれた場合、彼がその選択から多くの利益を得、それ以外の候補者が受益できないことが高い確率で予想されるわけだが、福田康夫の場合、「選ばれることは私にとって迷惑至極である」という意思表示を繰り返しているために、福田が選ばれた場合には「選ばれた人間も選ばれなかった人間と同じ程度にその結果に不満を抱いている」という状況が醸成される可能性が高いからである。
これは日本人がもっとも好むタイプの「三方一両損」ソリューションであるから、このまま福田康夫が仏頂面をキープしていれば、彼の総裁選勝利は固いのである。

M島君を囲んで、西宮北口でプチ宴会。
渡邊さん、川上先生、I倉くん、イ・ビョンホン激似のM谷くん、東京から通っているT畑さん、カウンセラーのN羽さん、鍼灸師資格をもつ院生のY山くん、それにウッキーが参加。
翌日がお仕事なので、早めに切り上げて帰宅。

水曜はオフなのであるが、このところ毎週大きな仕事が入ってきて、一週間で一番ハードな日。
今週は浄土真宗安芸教区の布教使のかたがたをお相手に一席ぶつお仕事で広島へ。
プログラムを見ると、研修会は「1時から4時半」となっている。
もろもろの研修があって、その一環として私のおしゃべりも含まれているのであろうと楽観して伺うと、この3時間半全部が私の講演なのだと聞かされる。
3時間半の講演ですか!
む、無茶な。
ふつう人間が耐えることのできる講演時間は90分が限界である。
それを超えたらどれほど話題が興味深くても人間は寝てしまう。
もちろん、聴衆を覚醒させ続けるためには、それなりの技というものがある。
「声のピッチやイントネーションを絶えず切り替える」「話題のたびに別人格に憑依する」「壇上で挙動不審なふるまいをする」などがそれである。
今回は3時間半ピンの話芸であるので、やむなくそれらすべての必殺技を駆使することになる。
とりあえず、いちばん簡単な「挙動不審の人物を演じる」から入る。
これは私自身が布教使のかたがたからははなから「誰だろ、こいつは?」的な怪しい人物に見えているはずなので、普段通りふるまっているだけで、十分な挙動不審性は確保できるのである。
挙動不審の次には、「何を言いたいのか聞いてもよくわからない」という技を繰り出す。
これも私の得意技である。
人前で話す機会のあまりない方はしばしば誤解することであるが、聴衆の関心をある程度以上長い時間ひきつけ続けるためには、理路整然、口跡明瞭、言いたいことがきっちり伝達されるような話し方をしてはいけない。
一つ一つのセンテンスは統辞的に明瞭であるにもかかわらず、あるセンテンスの次にどういうセンテンスが続くのか、まったく予測できないような乱数的コンテクストを展開することが必要なのである。
「別人格への憑依」は言い換えると「物まね」である。
子どもの話をするときは子どもになってみせる。おばさんの話をするときはおばさんになってみせる。
声色をかえ、しなをつくり、壇上を歩き回り、ガンを飛ばし、つばきを飛ばし、しゃがみこみ、飛び上がり・・・いろいろな人物を演じ分けてみせる。
手持ちの秘技を次々と繰り出しているうちに、ついに手札が尽きたころに、なんとか予定の3時間半が終了。
やれやれ。
演題は「理解と解離」というものであったが(現地に行くまでそんな演題を決めて先方に伝えたことを忘れていた。いつものことだが)、講師自身が解離状態をお示しできたので、言いたいことはわりとよくご理解頂けたのではないであろうか。
ぐったり疲れて新幹線に乗り、そのまま爆睡。
家に帰りつき、よろよろと倒れて、スパゲッティを啜りながら呆けて『キングコング』を見る。
33年の『キング・コング』では、崖から川に飛び込んだときにフェイ・レイの胸がぱらりとはだける水中シーンに中学生の私ははげしく動揺したものであったが、ナオミ・ワッツ版にはその場面がなかったのでちょっとがっかり。
--------