BSJ(ペ・ヨンジュン・サポーターズ・イン・ジャパン)のお歴々が来学される。
7月にBSJのオフ会で私が「冬ソナ論」を講演することになっているので、その打ち合わせである。
おいでになったのは3人のご婦人方。
おみやげに「ペ・ヨンジュンTシャツ」と韓国ラーメンとサムゲタンの素を頂く。
カムサムニダ。
なぜ、私がペ・ヨンジュンのファンクラブ(会員4911名!)で講演するはめになったかというと、3月の宗教倫理学会で『記憶・時間・自我』というテーマでお話したときに、「マクラ」で『冬ソナ』における記憶と自我の問題に触れたからである。
そのときは「未来の既視感」ということについて論じた。
その講演をたまたまおききになったBSJ会員の方がこれを多として、ひとつ会員たちに『冬ソナ』の説話論的重要性について一席お話し願えまいかと申し出られて来たのである。
まことに世の中にはいろいろな出会いがあるものである。
私としてもチュンサン=ミニョンのアイデンティティ問題は私のライフワークであるレヴィナス三部作の最終巻「レヴィナス時間論」(時間論はそのまま「記憶論」として語られねばならない)の重要な素材であるので、この機会に記憶と父性をめぐるアイディアを検証してみたいと考えている。
続いて昨日は『週刊現代』のお仕事で、興福寺に須菩提像を拝観に伺う。
これは「古仏巡礼」というコラムのためのお仕事である。
私は講談社にベリーニ一食分ならびに本一冊分の借りがあるので、こういうオッファーには「は、はい」とご返事するしかないのである。
それに興福寺は日経の『旅の途中』でごいっしょの多川俊映老師が貫首をされているお寺である。
老師と前にお会いした時、「次回の見仏ツァーは興福寺に伺いますから、ぜひ国宝の阿修羅を見せてください」と墨染めの衣の裾にすがりついてお願いした。
そこに古仏巡礼のお話が来たので、なんとなく「風は南都に吹いている」という感じがする。
実際には阿修羅像は国宝館にクールに展示してあり、入館料を払えば誰でも見られるので、別に貫首さまの墨染めの衣におすがりする必要はなかったのであるが、それはそれとして。
講談社からハイヤーが回ってきて芦屋のマンションの入り口から興福寺の本坊の前まで送って頂く。
講演や対談の依頼の中には「自力で現地まで定時に来ること。交通費宿泊費に関して当局は関与しないからそのつもりで」というものが多いが、さすが大手。
運転手さんと「講談社って太っ腹だね」とおしゃべりをしているうちに1時間ほどで興福寺に着く。
多川貫首は大学出講のため、執事長の森谷英俊老師から興福寺の由来について、唯識の教理について、春日大社との神仏習合の儀礼について、仏像のあれこれについてお話を伺う。
興福寺はこの巨大な施設を7人の僧侶と20人あまりの職員で運営されているそうであるが、短い期間にそののトップお二人に続けてお会いしたことになる。
法相宗というのは学問的な宗派である。そのせいかお二人はどちらもたいへんスマートで学術的な肌合いが似ている。
それにしても、このコンビの妙というのはジェリー・ルイス&ディーン・マーティンというかボブ・ホープ&ビング・クロスビーというか、ほんとうに感動的なまでにみごとなバランスなのである。私が本日お会いした森谷老師はマーティン=クロスビー系のクルーナー・タイプのお坊さんである(「クルーナー・タイプのお坊さん」というのを想像するのはちょっとむずかしいでしょうが)。
森谷老師のお話も多川貫首のお話と同じくらいにスリリングで面白かった。
間違いなく、仏教界には現代日本でもっともインテリジェントな人々が集住されつつあるようである。
東金堂、五重塔とご案内頂き、国宝殿で本日のメインイベント「須菩提像」とご対面する。
阿修羅や金剛力士や龍燈鬼天燈鬼と並ぶと、須菩提像はややインパクトに欠けるが、まあ、それは仕方がない。生身の人間なんだから。
それにしても仏像の身体を「構造的=力動的安定性」という視点から見ると、これはすばらしいものである。
先週の甲野先生の講習会以来、私が勝手に「きつね」と呼ぶところの掌のかたち(影絵で「きつね」の顔をつくるときのように、人差し指と中指を親指に近づける、掌に円筒形のものを握ったようなかたち)が身体構造全体に「張り」をもたせる鍵になっていることに気づかされて驚いていたのであるが、なんと仏像が結んでいる手の印(きっとちゃんと名前があるんでしょうけど、釈先生教えてください)は片手はすべて「きつね」なんですね。これが。
釈迦如来像の場合、右手は開いて前方に向け、左手が膝の上で「きつね」。
つまり左手は開放、右手は収縮、左手は「押し」、みぎは「引き」で全身に力がみなぎると同時に構造的な安定も確保されている。
そういうかたちに出来上がっている。
金剛力士像の「阿」と「吽」もそのままである。
「吽」像は右手が欠損しているが、私はこれは「手首を起こしたきつね」(楳図かずおの「ぐわし」の手ね)のかたちではないかと想像した。
左手が下を向いた「ぐう」である以上、右手は前方に向けて開いていないとバランスが悪いからである。
そう申し上げると、森谷老師は「ではミロのビーナスの手はどうなってるんでしょうね」とお訊ねになった。
ほんとですね。
でも、きっと肩の向きとか筋肉の張りとかからコンピュータ・シミュレーションしている人がいるんでしょうね(気錬会の工藤くんとか)。
「サモトラケのニケ」の顔はどうなのであろうか。CGで復元可能であれば、見てみたいが。
拝観ののち、本坊お隣の茶屋で「茶飯」を頂きながら、今度は『週刊現代』のインタビューに答える。
主に『週刊現代』はこんなことでよろしいのかと文句ばかり言っていたので、はたしてちゃんと原稿になるのであろうか。
心配である。
ご案内くださった森谷老師、おつきあい下さった編集者のみなさんどうもありがとうございました。
古仏巡礼いい企画ですね。
今度は滋賀の向源寺の十一面観音の「暴悪大笑面」が見たいです。
諸星大二郎の『暗黒神話』に出てくる神社仏閣を巡るツァーというのも面白そうだな。
ご飯のあと「ご近所なので」と興福寺に遊びに来た本願寺のフジモトくんとおしゃべりしながら車で西宮まで送って頂く。
三時から大学で理事会との協議会ならびに学長事務長と施設についての打ち合わせ。
いきなり現実世界に引き戻される。
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(2006-05-25 09:40)