平尾さんのスクラム論を読む

2006-05-23 mardi

うちの平尾さん(と勝手に身内扱い)が毎日新聞に「平尾剛の身体観測」というコラムを連載している。
二週間前に始まった。
恥ずかしながら第一回は気がつかなかった。
というのは、「ヒラオさんの連載が始まりましたね」と教えられてその日の朝刊をばっと拡げたら、「平尾誠二」さんのドアップのラグビー記事が目に入ったからである。
なんだ「ヒラオ違い」じゃないか。粗忽なやつもいるもんだと、夕刊で連載が始まったことに気づかなかったのである。
粗忽なのは私の方である。
第二回は今夜の夕刊。
老祥記の豚饅を食べながらビールを飲んで新聞をめくっていたら、平尾さんの写真と目があった。
あら、平尾さん、こんなところで何を・・・と思ったら、連載第二回目であった。
今回はスクラムの話であるが、現場の人ならではのリアルで体感のゆたかな文章である。
その中で平尾さんはスクラムとタックルの違いについてこう書いている。
「例えば、タックルはボールを奪うためのプレーである以上、どうしても激しく攻撃的となる。しかし、そういった敵対心むき出しのコンタクトに終始するのではなく、スクラムのように、互いが協力し合って、最大限の力を発揮するために身体を接触させるプレーがラグビーには存在する。/傷つけるためではなく、高めるための身体接触という観点からすると、『ぶつけ合う』というよりは、『預け合う』という表現がしっくりとくる。見た目にの荒々しいイメージとは対照的に、スクラムには味方同士のこまやかな配慮が必要とされるのである。」
そうか、ラグビーでも、やっぱりそうなんだと深く納得する。
合気道では「敵を作るな」と教えられる。
敵であるかぎり、それがどれほど非力なものであっても、敵は私の可動域を制限し、私の運動の種類の選択可能性を限定する「マイナス」として機能する。
敵がいる限り、私の運動能力はつねに「一人でいるとき以下」に切り下げられる。
しかし、「一人でいるとき」が運動能力が最大で、少しでも別のファクターが介在するとその分だけ運動能力が下がるということであれば、運動の理想は「絶対的孤立」であるということになる。
誰もいないときがいちばん「自分らしく」、出会う人がふえるごとに「自分らしくなくなる」というのなら、それはたぶん「自分」というものの設定の仕方が間違っているのである。
他者と出会ったときに、その接点に生成する複素的な構造体を「私」と考えることはできないのか。
私はできると思う。
一昨日、「剣の通り道を邪魔しない」ということと、「構造的安定によって剣を止める」ということを書いた。
これは原理的には同じことである。
食物を咀嚼するときには、「舌は歯の通り道を邪魔しない」ということが求められる(歯の通り道に舌が残っていると、「がりり」と噛み切られてしまうからだ)。
剣の通り道を避けようと意識するということは、「私」は舌で、「剣」が歯であるような二項対立関係をつねに意識してご飯を食べるようなものである。
私たちはそんなことをしない。
噛まれれば舌なんか軽く噛み切れてしまうほど鋭利な刃物を口腔中を行き来させながら、私たちは気楽にご飯を食べている。
それは「舌」と「歯」をともに含む「口腔」という複素的構造体を動作の主体に擬しているからできることである。
身と剣の関係もそれと変わらない。
身が剣に切られないためには、身の立場に立って異物としての剣をよけようとするのではなく、身と剣をともにふくむ「人剣複合体」を動作の主体である「私」として動けばよろしいのである。
理屈としてはそういうことである。
剣を止めるのも同じである。
「剣を止める」というふうに言うと、「止める私」と「止められる剣」に身体が二極化してしまう。
これは「剣を止める」という他動詞態ではなく、「剣が止まる」という自動詞態で身体を使わないといけない。
人剣複合体において「剣が急激に停止することによって最良の安定が生じる」かたちがある。
そのかたちを到成するならば、局所的な筋肉を緊張させることなく、剣はぴたりと止まるはずである。
理屈ではそうである。
私にそれができるということではない。
できなくても、こうすればよいという方向性はわかる。
平尾さんのスクラムの文章を読んで、そのことを思い出した。
スクラムはそこに参加する人の数が増えるほど複雑な運動体になる。
その運動体を効果的に制御できるものがいるとしたら、それは、スクラムを「ファクターが多すぎて、たいへん操縦の仕方が複雑になっているが、ある種の構造法則と運動法則に従って運動する複素的構造体」とみなすことのできる人であろう。
そのための最初の段階として、まず味方の8人の身体を一種の「多細胞生物」のようなものに練り上げてゆくことが必要である、ということを平尾さんは書こうとしているのではないだろうか。
だとしたら、平尾さんが甲野先生に就いて学ぼうとしていることや合気道の稽古で会得しようとしていることは、ラグビーに深く通じるような気がする。
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