日曜日だから剣でも抜いてみよう

2006-05-22 lundi

五月は週末もオフもなくて、21日がただ一日の休日である。
休日だけれど、午後は居合の稽古会があるし、『ダ・ヴィンチ・コード』の映画評も書かないといけないし、『私家版』の校正ゲラも机の上に鎮座している。
次に私が「休日」を迎えることができるのはダイヤリーによれば6月25日である。
月に休みが一日しかないというのもずいぶんな酷な人生である。
朝起きると身体が重い。
鏡に顔を写すと目の下に黒々とした隈ができている。
朝ご飯を食べて洗濯をして二度寝する。
昼過ぎにのろのろ起き出して映画評の原稿を書いて送稿。
また寝る。
1時間ほど寝て起き出して居合の稽古にでかける。
居合を稽古しているのは、全員合気道の門人たちであるが、剣の操法とは体術に深い関係がある。
弓と同じで、居合は相手がいない。だからひたすら自分自身の内面の身体感覚に集中することができる。
逆に言えば、合気道の場合は、受けの巧拙が大きく影響して、身体感覚のいい人に受をとってもらうと、めざましく術技が向上するが、居合の場合はそういう導き手になってくれるものがない。
100%自己責任である。
2時間半ほど基本の納刀と血振りと型(表、受流し、柄当、袈裟斬、諸手突)を稽古する。
剣の操法でいちばんたいせつなことは、「剣を道具的に扱わない」ということである。
矛盾した言い方だが、剣にしても杖にしても、それぞれの道具にはそれぞれに固有の「生理」がある。動きたい線があり、動きたいタイミングがある。人間の身体は道具の動きを邪魔しないように、いわば道具の「通り道」をぎりぎりに空けるように動かなければならない。
剣を「自由」にさせるのである。
人間の統御を離れた瞬間に剣はそれに固有の生理で運動を始める。
人間はその動きだしの「きっかけ」をつくるだけで運動そのものを統御しようと思ってはいけない。
「きっかけ」をつくった人間の次の仕事は動きを「止める」ことである。
剣はどこまでも走り続けようとするが、人間はこれを急激に止める。
走り続けようとする剣と止めようとする人間の「相反する力」がぶつかるときに爆発的なエネルギーがそこに発生する。
武術をやってわかったことのひとつは「限界を越えるようなエネルギーはつねに相反するものが出会うときに発生する」ということである。
押し斬りと引き斬りを同時に行うときに斬りのエネルギーが発生するように、空間を走り続けようとする剣とそれを止めようとする人間が出会うときに、剣はその最大の力を発揮する。
剣はその生理からして、きっかけさえ与えれば空間を自由に飛んで行く。
けれどもふつうの人は「道具が自由に動く」ということがよく理解できないので、剣をがっしり握り込んで、剣を操作しようとする。
すると剣は死んでしまう。
だからといって剣をアナーキーに自由にさせておくと、剣のそばにいる人間の指は飛ぶ、耳は切れる、鼻は削げるとたいへんなスプラッタ状態になる。
だから、剣の「通り道」には絶対に身を置かないという身体技法がまず基本になる。
自分の身体は動かさないで、剣に迂回させるような横着をしてはいけない。剣の通り道の邪魔をしないように、身体の方を動かすのである。
「剣をよける」技術の次に、「剣を止める」技術を身につけないといけない。
殆どの人は腕の力で止めようとする。
腕の力でも止められないことはないが、すぐに肘を壊す。肘をかばえば肩を壊す。肩をかばえば腰を壊す。
空間を走る剣は腕の力では止められない。
身体全体の構造的安定性によってしか止められない。
剣を含んだ身体全体の構造が「剣が急激に止まることによって安定する」ものであれば剣は自然に止まる。
だから、剣で人を斬ることは思っているよりも簡単だろうと思う(斬ったことがないからわからないけど)。
だって、「剣を止める技術」が必要ないんだから。
素人でも振り回して、相手の身体に剣が食い込みさえすれば、肉や骨の抵抗で自然にスピードが鈍磨するから、腕の力だけでも剣を止めることができる。
ただし、止める技術を持っていない人は、剣を大振りして、空振りすると、次に動き出すまでに「間」があくので、そのあいだに斬られてしまうリスクがある。
でも、止める気がなければ、剣のヘッドスピード自体は相当早くなるから、これをよけるのはかなりむずかしいだろう。
高倉健さんの殺陣はたいへんに高度なものであるが、これはご覧になるとわかるけれど、「剣を止める」技法と、「剣を止めない」技法が使い分けられている。
映画のはじめの方でちゃんとした立ち会いをするときには健さんはぴたりと剣を止めているが、映画のラストで「唐獅子牡丹」に送られて池部良と殴り込みにゆくときは剣を止める気がぜんぜんない。
こういう使い分けをナチュラルにできてしまうところがさすがに天才的である。
それはさておき。
剣を止めるのが身体全体の構造的安定性でなければならないということは昨日守さんから意拳の話をうかがったときにふと思いついたのであるが、稽古の方々にはあかたも自明の術理であるかのごとくにお教えする。
構造的な安定というのは中枢的には統御できない。
中枢が統御すると必ず局所的な筋肉の緊張が起こる。
それは避けたい。
構造的な「張り」が全身に均質的に分布するように身体を使うにはどうすればいいのか。
訊かれても、私にだってアイディアがあるわけではない。なにしろ思いついたばかりの術理なんだから。
教えながら考える。
でも、わずかな時間のうちに、何人かはこれだけの説明でまるで剣の走り方が変わってしまった。
刃筋が通って、きれいな樋の風切り音が出るようになってきた。
だから武道は面白い。
重い身体をひきずって行った稽古だったけれど、すっかり上機嫌になる。
ドクターは土曜の稽古で左肩の鎖骨を折ってしまい(犯人は私。ごめんなさい)、しばらくお稽古できないのであるが、右手だけで片手切りの稽古をしている。
一刻もはやい快癒を祈っております。
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