邪道散人、忙中閑あり

2006-05-12 vendredi

次々といろいろなメディアから仕事の依頼が来る。
どういう基準で私が選ばれているのか、本人はさっぱりわからない。
『週刊現代』と『クロワッサン』と『現代のエスプリ』とフジテレビ。
フジテレビの依頼はお断りする。
テレビに出ないというのは別に確たる思想があるからではなく、テレビというのは異常に拘束時間が長いということを経験的に知っているからである。
前にテレビに出たときは5時間ほどスタジオに拘束されて、出番は30分くらいで、放映されたのは3秒だった。
これはやはり人生を過ごす仕方としてあまり効率的ではない。
その点ラジオの生放送はたいへんよい。
前に本番1時間前にスタジオ入りしたら、スタッフが誰も来てなかったことがある。
打ち合わせもほとんどなく、しゃべり終われば、そのままスタジオのドアを開けて家に帰れる。
雑誌の取材と違って、あとからゲラが送られてくることもないし、写真も撮られない(だから小汚い格好をしていってもノープロブレム)。
拘束時間の少なさと「後腐れ」のなさではラジオが一番である。
ラジオのインタビュー番組を録音して、あとで「こやつの言い分は事実と違う」というようなことを言い立ててくる暇人は(あまり)いない。
何よりテレビの欠点は「出ると顔を知られる」ということである。
私のような職業の人間にとって「顔を知られる」ということは百害あって一利がない。
今でも街を歩いているときによく人から顔をじろじろみられるが、それは「どこかで見たことがある顔だが、誰だか思い出せない」からである。
新聞雑誌にときどき顔写真が出たりするからこういうことになるのである。
この「誰だっけ、こいつ?」という疑問符つきの視線でじろじろといつまでも注視されるのは、かなりいたたまれないものである。
これがテレビに出たりすると、当然「あ、あれは・・・・ウチダだ!」ということにめざとい人は気づいてしまう。
「何やってんのかしらね」「やだ、もやし買ってるわよ」「あら、289円の万能葱を棚に戻して、189円の青ネギに取り替えたわ」「けちくさいわね」
というような好奇のマナザシにさらされることを私は喜ばない。
さいわい最近の街行く若い人は新聞も雑誌ももちろん単行本も読まないので、私の顔なんか知らない。
ビデオ屋で『ゾンビー・キング』と『蝋人形の館』と『マッハ!!!!!!』を借りても、店員たちに「やだ、ウチダって、こーゆー趣味なんだ」「えらそーなこと書いてるけど、頭悪いわね」というような値踏みがなされる気づかいはないのである。
ほっ。

『週刊現代』は「古仏巡礼」という記事。
これは編集長のカトウさんに前に芦屋のベリーニでフレンチをおごってもらったまま、「食い逃げ」をしているので、ちょっと断ることの出来ない筋なのである。
『クロワッサン』の取材は趣旨がなんだかよく知らない(聞いているけど忘れたのであろう)。
あるいはマガジンハウス系知識人というものに名簿登録して頂いたのであろうか。
昼飯に毎日「赤いきつね」や「みどりのたぬき」を食べているような大学教員をマガジンハウス系知識人に認定して御社のブランドイメージは維持できるのであろうか。
ひとごとながら心配である。
『現代のエスプリ』は池田清彦先生からのご指名で、「構造構成主義」の特集に何か書くようにというご要請である。
構造構成主義って・・・なんだろう?
知らないけど、「はい、書きます」とご返事する。
池田先生にはお会いしたことがないが、生物学者であるからきっと「まっとうな方」であろうと判断してのことである。
というのも、私が個人的に知っている生物学者というと魚のヤマモト先生と蜂のエンドウ先生と草のノザキ先生だけであり、私の生物学者像はこの同僚の方々をモデルに造形されているからである。
このようなアバウトな仕事の仕方をしていてよろしいのであろうか。
わがことながら心配である。
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