『冬ソナ』と村上春樹の世界性

2006-05-08 lundi

早速頂いたタケノコをぬかで茹でて、タケノコご飯とタケノコみそ汁を作る。
美味である。
朝昼とぱくぱく食べる。
タケノコご飯を食べているうちに、不意に「『冬ソナ』を見て泣く人間」と、村上春樹ファンは「けっこうかぶる」のではないかというアイディアを得る。
無根拠な妄想とも言えない。
というのは、先日書いたとおり、村上春樹ワールドは「父のいない世界で息子はどうやって生きるか?」という問いをめぐる物語であり、『冬ソナ』の作劇術もやはり「父を持たない息子」と「父を持たない娘」が、「父の不在」と「父の顕現」が織りなす無数の出来事に翻弄される姿を描くところにあったからである。
チュンサンとユジンがなかなか結ばれないのは、構造的にはつねに「不在の父」が、まさに不在であるがゆえに「存在するとは別の仕方で」彼らにかかわってくるためである。
「不在であるべき父」がいささかでも現実性を帯びてくるごとに、二人の恋は危機に瀕する。
そして、最後にチュンサンの生物学的な父が確定したところで、なぜか二人は決定的に離別してしまうのである。
理由は不明(これはサンヒョクが主張するように、よくよく考えてみると理解しがたい結論である)。
そして、チュンサンがユジンの設計した家を「模倣」することによって、つまりふたりを結びつける関係には「上位審級も、先行する起源もない」という物語を構築することを対価として、二人は再会する機会を得るのである。
ふたりを結びつけるすべては「父の不在」という欠性態の上にかろうじて成り立っている。
きっとそうだよ。
「韓流ドラマ」とひとくくりにするが、『冬ソナ』はやはりひとつだけ「ものが違う」のである。
だから、世界性を獲得しうるのである。
これは東アジアだけの現象ではないであろう。
だから、いずれ『冬ソナ』がフランスで大人気とか、ロシアでブレークという話を聴いても、私は驚かない。
今月号の『文學界』は3月に行われた国際シンポジウム「世界は村上春樹をどう読むか」のワークショップを採録している。
柴田元幸・沼田充義が司会した翻訳のワークショップはたいへんに面白かったが、四方田犬彦が司会したワークショップの方は正直申し上げて、あまり感心しなかった。
それは司会の四方田が村上文学の特徴は「無臭性」「無国籍性」だという見方にこだわり、政治的な文脈に村上文学の意味を還元しようとしているせいである。
無臭であり、無国籍であるような文学作品は世界に山ほどあるが、当然ながら、そのすべてが世界的なベストセラーになるわけではない。
同じように政治的な文脈のうちに絡め取られた文学作品は世界に山ほどあるが、当然にも、そのすべてが世界的なベストセラーになるわけではない。
村上文学は無国籍的であるかもしれないし、政治的文脈のうちに絡め取られているのかもしれない。
だが、それだけでは村上文学が世界性を獲得した理由は説明できない。
ほかの無国籍的・政治的文学作品と「どこがちがうのか」というところに照準しない限り、その論点は主題化されない。
文学研究上の興味は主にそこにあるだろう。
さらに納得がゆかないのは、四方田の最後のコメントである。

「ここには『世界がハルキを読む』という名目で、多くの国々と言語を出自とする方々が集まっているわけですが、ここに招待されていない言語と国家はどうなっているのでしょうか。どうして春樹のアラビア語訳やウルドゥー語訳が存在していないのでしょうか。これは言語をめぐる政治の問題です。はたして、バグダッドやピョンヤンでは春樹は読まれているのでしょうか。世界がハルキを読む。大いに結構です。だが、その場合の『世界』とは何なのか。端的に言って『勝ち組』の国家や言語だけではないのか。ここに排除されているものは何なのか。誰なのか。」(『文學界』、6月号、174頁)

これはいくらなんでも「言いがかり」というものだろう。
アラビア語やウルドゥー語の訳が存在しない文学作品は「所詮ローカルな文学」というロジックが成立するなら、この世に世界文学などというものは存在しない。
村上春樹は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、ハンガリー語、フィンランド語、デンマーク語、ポーランド語、インドネシア語などに訳されている。これから語種はさらに増えるだろうが、それでも世界のすべての言語に訳されるということはありえないだろう。
話者が数百人しかいない絶滅寸前の語種は地上に無数に存在する。
それらすべてに読まれないと「世界的に読まれている」という表現は許されないとすれば、その条件を満たすような文学作品はこの世に存在しないし、これからも存在しないであろう。
それに、地上にはレヴィ=ストロースが教えるように無文字社会がいくらもある。
そのような社会集団には村上春樹であれ誰であれ、およそ「読む」という行為がなされていない。
だから、今の議論ではそのような社会を四方田は「世界」のうちに勘定に入れ忘れているのではないかという疑問だって呈示できる。

「四方田が論じているのは、端的に言って『読める』人間の社会や言語だけではないのか。ここに排除されているものは何なのか。誰なのか。」

そういう言いがかりはあまり品がよくないし、生産的でもないから、私はしない。
人類史発生以来、人間が書いたすべてのテクストは膨大な数の「それを読んでいない人々」「それを読む機会から排除されている人々」を有している。
それはどのような書物についても構造的に不可避である。
存在するすべての書物にあてはまることをある特定の書物について述べても、それでその書物の性格を特徴づけることはできない。
村上文学の特徴として「翻訳されていない語種が存在する」ということを告げるのはまるで無意味である。
無意味なことを言う暇に、村上文学が「それを読む機会から排除されている人間」の数をこれだけ減じたことの個別的な理由の発見に知的リソースを注いだ方が生産的ではないかと私は思う。
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