skype とニート論

2006-05-03 mercredi

三年のゼミは「skype」(「スカイプ」と読むらしい)。
何のことだかおわかりになりますか?
私ははじめて聞いた。
P2P (peer to peer) で無料で世界中の人と電話ができる仕掛けらしい。
ネットからダウンロードできるので、半月ほど前に世界で1億人。
おそらく今月末には2億とか3億人とかいう数の人がこの「電話ただ掛け」テクノロジーの恩恵に浴すことになるであろう。
へー。
「電話ただ掛け機」というのがハッキングの起源であったことは古手のパソコン使いはご存じのとおりである。
70年代に「キャプテン・クランチ」という通り名をもつ伝説的なハッカーがいた。
彼は同名のシリアルのおまけの笛の音が電話局の使う発信音と同じであることを利用した「電話ただ掛け」技術を開発したことで知られている(@オダジマ先生情報)。
それから幾星霜。
あいかわらずハッカー諸君は「電話ただ掛け技術」の開発に余念がないようである。
スカイプによる「電話ただ掛け」は別に電話局の設備をこっそり盗用するわけではなく、ありもののネットの上を電磁パルスが走るだけなので、誰にも迷惑をかけない(電話局の売り上げは多少減るが)。
通信費不要の電話使用が可能になることで、はたして電話文化は激しい変動を経験することになるのだろうか。
私はそれほど変化しないような気がする。
たしかに「ただで電話できる」ということを理由として、今まであまり電話を利用しなかった人たちが多方向にエンドレスで電話をするようにはなるだろう。
でも、その人たちだって「別に電話するほどの用事じゃないこと」を「まあ、ただだから」ということで電話するだけの話である。
「別に電話するほどの用事じゃない」大量の情報が電話回線をかけめぐっても(「ねえ、今なにしてんの」「え? 電話」)、それによって国際政治や世界経済が大きく変化するということはないように思う。
「電話ただ掛け」はハッキングの歴史が教えるように、その技術開発そのものの知的興奮と、そこからスピンオフする新しいテクノロジーに価値があるのであって、「電話ただ掛け」そのものが民衆の福音であるということではない。
「キャプテン・クランチ」だって、長距離電話をかけて面白がったのは最初の数回だけだったと思う。
だって、遠隔地にいる友人や恋人と長電話して親交を深めたいと思うような人間がハッカーになるはずがないから。

大学院のゼミは「現代若者論考」。
どうしてこれほど若者論がさかんなのかというフクイさんの発題である。
私もあれこれの若者論をずいぶん読んだ。
その上で、感じることは「どれも一理ある」ということである。
「一理ある」けれど、「一理しかない」。
自分以外の方々の若者論との「共生」や「相互啓発」に開かれているものはあまり多くない。
というか、少ない。
ほとんどの若者論は無意識のうちに「排他的」な言葉づかいをする。
それぞれが依拠している資料・データ・統計数値・臨床例・個人的経験が違うのは当然である。
だが、自分が依拠している資料や自分が行使している推論の仕方は信頼性が高く、他の論者のそれは信頼性がないということを証明するのはたいへんむずかしい。
それはほとんどの場合同語反復になるしかない。
私はこういう種類の排他性を好まない。
社会の変化は「同時多発的」であり、ぜんぜん関連のない領域に「ぼこ、ぼこ」と発現する。
一つの地殻変動が複数の徴候を示すことがある。
だから、「私だけが現実の変化を見ていて、お前たちが見ているのは仮象である」という言い方はできるだけ自制した方がいいと思う。
若者論がこれだけ繁昌するのは、この現象をきちんと記述できるような学術的枠組みが私たちの手持ちの社会理論にはないからである。
そういういときは、みんなで集まって、「ああでもないこうでもない」とわいわい騒ぐ・・・というのがこういう場合の対応としてはいちばん健全なものだと思う。
誰か一人が「オレが全部説明してやるから、お前らは黙っていろ」というような言葉づかいで仕切ろうとすると私はちょっとげんなりしてしまう。
若者論の大枠は「学びからの逃走・労働からの逃走」というトレンドが心理的な問題(若者の内面の問題)なのか、経済的な問題(雇用の仕組みの問題)なのかという対立に収斂している。
「ニート非難派」はこれは「心の問題」だだから「しゃっきりしろ」と一喝すれば問題は解決すると言い、「ニート擁護派」はこれは「雇用の問題だ」だから行政が手厚い制度改革をすることが何より重要と言う。
あのさ。
そんなの「両方の問題」に決まってるんじゃない?
「しゃっきりしろ」と一喝したって、事態は変わらない。
「勤労の義務」は憲法27条に明記されているのであるから、ニートは存在自体が違憲なのである。
存在すること自体が違憲であるところのもの(ほかにもありますね)をどうやって「おやじの一喝」くらいで補正できましょう。
そのような心理や生活習慣が生成し定着するには長く深い前史が存在するはずである。
一方、「雇用の問題」だという方々はクールでリアルな施策の必要性を説く。
でも、雇用の問題を行政レベルでリアルに考えるということは、雇用機会の拡大にしても、職業訓練機会の拡大にしても、年金制度や奨学金制度の充実にしても、要するに「金が要る」ということである。
だから、金が要るんだよ。
みなさん、最後にはそうおっしゃる。
だが、それが「金があれば社会問題のほとんどは解決できる」という思想に同意署名しているということにはもう少し自覚的であったほうがいいのではないか。
いま観察されている「学びからの逃走・労働からの逃走」という趨勢は、そういった経済合理性の原理に対する子どもたちの側の違和感や拒否反応を間違いなく原因のうちに含んでいる。
「マルクス主義がどうもぴんと来ないんです」と言ったら、「それはウチダ君に階級的自覚が足りないからだ。まずマルクスを読み給え」という革命的同志が昔いた。
「フェミニズムがどうもしっくり来ないんです」と言ったら、「それはあなたが父権制から受益しているセクシスト強者だからよ。いいから上野千鶴子を読みなさい」というフェミニスト同志が昔いた。
何か変、と私は思った。
だから、私にはニートの気持ちがちょっとだけわかるような気がするのである。
「どうも勉強する気にも働く気にもならないんです。つうか、金ってそんなに大事ですか」と言ったら、「何を言ってるんだ。さ、お金上げるから、勉強して、仕事をしなさい」と言われても。
ニートの問題はさまざまな社会的要因が深く複雑に絡み合っており、それにもかかわらず、明確にある趨向性を持っている。
それが何に起因しているのかを遡及的に解明することも大切である。
だが、いったいこの趨勢は「どこへ」向かおうとしているのか、もしこれがある種の社会的な地殻変動の予兆のかたちであるとしたら、そちらの方がむしろ優先的な論件であるように私には思われるのである。(続く)
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