村上文学の世界性について

2006-05-02 mardi

AERAの取材。
お題は村上春樹。
今年6回目になるフランツ・カフカ賞の受賞者はその年のノーベル文学賞に選ばれる確率がたいへん高いので、プラハの新聞は「ムラカミ氏はストックホルム行きの航空券を手配しておいた方がいいだろう」とコメントしている。
先日は村上春樹をめぐる国際シンポジウムが開かれ、世界各国の村上研究者が村上文学の本質について熱い議論を展開した。
しかし、ご存じのとおり、今や日本を代表する世界的文学者である村上春樹について、わが国の批評家のほとんど全員(およびかなりの数の作家)たちが「毛嫌い」ないし「無関心」を示している。
世界的な評価とドメスティックな無関心の対比はまことに興味深い。
これを「売れているから嫉妬している」というふうに下世話に解釈することは(かりにそれがかなりの程度まで事実であったとしても)文学的には生産的ではないだろう。
やはり、村上春樹を嫌う人々にはそれなりにやむにやまれぬ文学的事情というものがあるに違いないと考える方がよろしいと私は思う。
その「やむにやまれぬ」ドメスティックな事情とは何か。
村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。
当たり前だね。
では、その「世界性とは何か」ということになると、これについて私はまだ納得のゆく説明を聞いたことがない。
そこで私の説を語る。
村上文学には「父」が登場しない。
だから村上文学は世界的になった。
以上、説明終わり。
これでは何のことか分かりませんね。
そこで補助線を一本引く。
こんな命題である。
「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」
これでだいぶ見通しがよくなった。
分析的な意味での「父」は世界中のあらゆる社会集団に存在する。
「父」とは「聖なる天蓋」のことである。
その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。
それが「父」である。
「父」はさまざまな様態を取る。
「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。
世界中の社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。
「父」はそれらの集団内部にいる人間にとって「大気圧」のようなもの、「その家に固有の臭気」のようなものである。
それは成員には主題的には感知されないけれども、「違う家」の人間にははっきり有徴的な臭気として感知される。
「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能を果たしているが、それぞれの場所ごとに「違う形」を取り、「違う臭気」を発している。
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。
キリスト教文学では「神」との、イスラム文学では「預言者」との、第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「支配階級」との、フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、自然主義文学では「家父長制度」とのそれぞれ確執が優先的な文学的主題となる。
いずれも「父との確執」という普遍的な主題を扱うが、そこで「父」に擬されているものはローカルな民族誌的表象にすぎない。
作家のひとりひとりは自分が確執している当の「父」こそが万人にとっての「父」であると思っているが、残念ながら、それは事実ではない。
彼の「父」は彼のローカルな世界だけでの「父」であり、別のローカルな世界では「父」としては記号的に認知されていない。
だから、彼が「ローカルな父」との葛藤をどれほど技巧を凝らして記述しても、それだけでは文学的世界性は獲得できないのである。
私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。
「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。
しばしば話は逆なのだ。
「私たちが知らないことは他者も知らない」ということの方が多いのである。
私たちが興味をもって見つめるものは社会集団が変わるごとに変わるが、私たちが「それから必死で目をそらそうとしていること」は人間の本質にかかわることが多い。
「生きることは身体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか「私たちが自己実現できないのは、『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを私たちは知りたくないので、必死で目をそらそうとする。
でも、そのことを知りたくないので必死で目をそらすということは、自分が何を知りたくないのかを知っているからできることである。
知っているけれど、知っていることを知りたくないのである。
だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その不能のあり方にはしばしば普遍性がある。
人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく「知らない」こと、「できないこと」において深く結ばれているのである。
人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。
けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。
「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。
私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。
「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。
地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない(はずである)。
でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか・・・という考え方をする人がまれにいる。
村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)、この地図もなく、自分の位置をしるてがかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、ランダムに拾い上げた道具をブリコラージュ的に使い、偶然出会った人々から自分のポジションと役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。
その歩みは足跡を残したごく狭いエリアについての「手描き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。
ささやかだけれど、たいせつな仕事だと私は思う。
私と同じように思っている人がきっと世界中にたくさんいるのだろう。
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
これが村上文学に伏流する「問い」である。
「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。
「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。
それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。
けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。
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