フェミニンな共産主義社会

2006-04-28 vendredi

4月27日付けの毎日新聞によると、社会経済生産性本部が行った2006年度の新入社員への意識調査に興味深い結果が示された。
終身雇用を望むものが40%を超えたのである。
その一方、「社内出世よりも独立・起業」を望むものは20%。これは3年連続での減少である。
プロモーションシステムとして「年功序列」を望むもの37%(これも調査開始の90年以来最高)、成果給を希望するものは63%だが、これは過去最低の数値。
仕事の形態として望ましいのは「チームを組んで成果をわかちあう」スタイルを望むものが79%。
「個人の努力が直接成果に結びつく」はわずか20%。
「最近の若者は・・・」というワーディングがあまり信用できないのは、それがすべて「旧聞に属する」情報だからである。
若い人はそのつどつねに生存戦略上もっとも有利なオプションを選択する。
それは親や教師やメディアがアナウンスする「有利なオプション」と違うことがある。
「潮目」が変わるときには、子どもたちの方が反応は早い。
大人たちが感知できない地殻変動を子どもの方は感じ取る。
なにしろ彼らにしてみれば、「潮目の変化」は命がけの大事である。
「これまでの主張との整合性」とか「政治的正しさ」とか「統計的裏づけ」とか、そんなものは知ったことではない。
明日の米びつの心配をしているときに他人の説教なんかのんびり聴いてはいられない。
少し前までは「スタンドアローン」と「フリーハンド」と「責任の回避と利益の独占」が戦略として推奨されていた。
ロウ・リスク社会におけるふるまい方としてはそれがいちばん効率的でクレバーなものだったからである。
そういうマナーが「正解」である時代が80年代中ごろから15年くらい続いた。
でも、そういう生き方をする若者(もう上の方は中年だが)がマジョリティを占めるようになり、「自分探し」というようなことを中教審が言い出すところまで話しが凡庸化すると、今度は「裏に張る」方が生存戦略上有利になる。
そういうふうにしてつねにトレンドは補正される。
セーフティネットのないハイ・リスク社会では、「自己決定・自己責任」に代わって「集団に帰属して、そこに集約される利益の再配分に与る」方が受益機会が多いということが彼らにもわかってきた。ということを一昨日書いた。
終身雇用、年功序列の復活を若い人たちの一部が望み始めたということは、ある程度の規模の集団に安定的に帰属することがリスクヘッジと受益機会の確保のためには有効であるということがわかってきたということである。
彼らはいずれ一人の配偶者と長期的に安定した性関係を取り結ぶほうが、性的にアクティヴであり続けるよりも得るものが多いことにも気がつくだろう。
ビジネスでブリリアントな成功を収めることを望むよりも、家族や友人や隣人たちとの「ささやかだが安定的な互酬的関係」を構築しておくほうが生き延びる上での安全保障としては確実だということにも気づくだろう。
そうやってゆくと、このあと21世紀の中ごろに日本は「1950年代みたい」になるような気がする。
生活は貧しいし、国際社会でも相手にされない三等国だけれど、全員が飢えるとき以外にはひとりも飢えないような暖かい社会。
そんな社会が私が老衰する前に見られるとうれしいのだが。
ひとりひとりがその能力に応じて働き、その必要に応じて取る。
のだとすれば、それはマルクスの描いた共産主義社会そのものである。
「フェミニンな共産主義社会」
おそらくこれが私たちの社会がゆっくり向かいつつある無限消失点の先に望見された「ある種の楽園」のイメージなのである。
フェミニズムとマルクス主義とマルクス主義的フェミニズムが「消滅」した後にはじめて、そのような「楽園像」が現出するとはまことに不思議なことである。
というより、フェミニズムとマルク主義は、「フェミニンな共産主義社会」にたどりつくために私たちが通過しなければならなかった過渡期だったと考えるべきかも知れない。
もちろん私にとっての「ある種の楽園」は、私以外の多くの人にとっては「ある種の地獄」にほかならぬであろうから、楽園の到来までにはまだまだ越えるべき無数の障碍が待っているのである。
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