政治を弔うということ

2006-04-27 jeudi

ナショナリズムについて書いたら、午後に毎日新聞から「当今の若者の政治行動について」インタビューを受けた。
おおシンクロニシティ。
どうしていまの若者たちは言説レベルではあれほど排外主義的なのに、実際行動として政治党派を結成するとかデモをするとかしないのでしょう・・・というお訊ねである。
もちろんそんなめんどうなことを彼らがするはずがない。
書いたとおり、彼らは「グローバリゼーションの申し子」だから、「できるだけコストをかけずに最大の利益を上げる」ことを生きる上での基本原則として教え込まれている。
しかるに政治運動というのは、若い人もおそらく直感的にわかっているだろうが、その全行程の90%以上が「ぱっとしない日常」なのである。
運のいい政治運動の場合は10%程度の「祝祭的高揚期」に恵まれる。
その時期には「祭りだ祭りだ」と有象無象がわらわらと寄ってくるので、一時的ににぎやかになる。
しかし、あらゆる政治運動は、どれほど綱領的に整合的でも、政治的に正しくても、必ずいつかは「落ち目」になる。
これは歴史が教える永遠の真理である。
しかし、政治運動が歴史的事象として記憶され、知的なリソースとして後代に活用されるためには、この「落ち目の局面」を粛々とになう「後退戦の将兵たち」が必要である。
ある政治的運動の歴史的な価値は、祝祭的な場面における動員数や、そこで破壊されたものの規模によってではなく、「非祝祭的後退戦」を黙々と担う「弔い役」の仕事のていねいさによって決まるのである。
「棺を蓋いて定まる」と古諺に言うとおり、人の世の出来事はすべてが終わり、「がたん」と棺の蓋が閉まったときにはじめてそれが何であったかがわかる。
誰もがその思想や運動に見向きもしなくなったとき、こつこつと「後片付け」をする人間がどれだけていねいにその仕事を果たすかで、その価値は決まる。
東大全共闘は政治運動としてある種の完結性をもつことができたと私は思っているが、それは山本義隆という個人が「弔い」仕事を引き受けたからだ。
痩せて疲れ果てた山本義隆が1974年の冬、東大全共闘最後の立て看を片付けているとき、彼の傍らにはもう一人の同志も残っていなかった。
冬の夕方、10畳敷きほどある巨大な立て看を銀杏並木の下ずるずるとひきずってゆく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。
目を向ける人さえいなかった。
法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目にそれは死に絶えた一族の遺骸を収めた「巨大な棺」を一人で引きずっている老人のように見えた。
東大全共闘はひとりの山本義隆を得たことで「棺を蓋われた」と私は思っている。
ナショナリズムでもフェミニズムでも、政治運動である限り、それはいつか退潮期を迎える。
そのときに「イズムの弔い」を引き受ける覚悟のある人間がいる政治運動はそのような「オーラ」を前倒しで帯びることになる。
「その政治運動が没落したときに見捨てない人間がいる」という未来の事実が、現在のその政治運動の質を担保するのである。
そのように時間の順逆が転倒したかたちで政治運動や政治思想は消長を繰り返す。
日本軍国主義やロシア・マルクス主義がまったく利用価値のないイデオロギーであるのは、そのイデオロギーそのものの内部的な瑕疵ではないし、そのイデオロギーの名において構築されたり破壊されたりしたものが微々たるものだったからでもない。
そうではなくて、そのイデオロギーが「落ち目」になったとき、身銭を切って「弔い」を出す人間が一人もいなかったから、それらのイデオロギーは政治的価値を失ったのである。
閑話休題。
だから、いま日本のネットメディアをにぎわしている種類の政治イデオロギーは、それがどれほど多くの人間の賛同を得ようとも、どれほどの熱狂をつくりだそうとも、利用価値のないイデオロギーだろうと私は思っている。
毎日新聞の取材に私はそうお答えした。
なぜなら、その政治運動が破壊したもの(これから破壊するもの)について、すべてが終わったあと、「私はその有責者のひとりである」と名乗り出て、「石もて打たれる」覚悟の人間がいないからだ。
匿名で政治を語る人間が運動を「盛り上げる」上で大きな役割を果たすということはある。
しかし、匿名で政治を語る人間が運動の退潮期に「弔い」の責務をわが身に感じるということはない。
責任をとる気がある人間はそもそも匿名で発言したりはしないからだ。
繰り返し書くが、あらゆる政治運動、政治思想は「短い栄光の夏」と「エンドレスの気鬱な冬」から形成されている。
そして、その運動や思想の価値を最終的に決定するのは「冬の過ごし方」に知的リソースを投じたひとにぎりの人々なのである。
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