非人情三人男

2006-04-25 mardi

「非人情」というのは夏目漱石の造語であることをそれからしばらくして寝床の中で思い出した。
『草枕』という小説は全編「非人情」とは何かをめぐる哲学的考察である。
冒頭のよく知られた文章を採録する。

「苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心地ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少なかろう。どこまでも世間を出ることが出来ぬのが彼等の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから、所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。(…) うれしい事に東洋の詩歌にはそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。只それぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向かうに隣の娘が覗いている訳でもなければ、南山に親友が奉職しているわけでもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去つた心地ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。只二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすりと寝込む様な功徳である。」

こんな文章を国語の教科書に載せて、中学生に読ませるというのもどうかと思うが、私は中学生のときにこの文章を読んで「浮世の勧工場」というワンワードについと胸を衝かれたことを覚えている。
私が中学生の終わり頃から漢詩好きになったのはおそらくこの一文の影響なのであろう。
『草枕』の語り手である「余」は絵の具箱を抱えて、ふらふらと山間の湯治場にでかける。
その趣向はこうである。

「しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。まるで人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、なるべく節倹してそこまでは漕ぎ付けたいものだ。(…) 余もこれから逢う人物を-百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも-悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りなしてみよう。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人物が動くと見れば差し支えない。」

漱石の非人情は言い換えれば、「美的生活」ということだが、そのときの「美的」ということを「浮世の勧工場」の物差しで計っては俗になる。
「美的」というのは、ここでは「超然」ということである。
漱石は『草枕』を書き始める前に「楚辞」を耽読したそうである。
だから、『草枕』に横溢する無数の漢語的詩句の多くは「楚辞」由来のものなのである。
漱石は日露戦争のさなかの明治の日本の風景を叙するに紀元前4世紀の文人の語法をまず学んだ。
この「距離感」がおそらく漱石の「美的」の骨法である。
クロード・レヴィ=ストロースは人類学の論文を書く前に必ずマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を繙読することを習慣としていたとご本人がどこかで書いている。
この選書のセンスに私は深い共感を覚える。
というのは、マルクスの全著作のうちで、『ブリュメール18日』がおそらくはもっとも(漱石的な意味で)「非人情」なテクストだからである。
マルクスがマルクスになったのは、自分の国であるドイツの階級闘争について熱く論じているときではなく、英国に流れて、大英図書館の薄暗い閲覧室で、隣国フランスの階級闘争にクールな分析を加えたことによってである。
ドーバー海峡の向こう岸で殺し合いをしているフランス人たちを「画中の人物と見れば差し支えない」と非人情に徹したときに、マルクスの政治的理説は完成を見たのである。
漱石が「楚辞」を読み、レヴィ=ストロースが『ブリュメール18日』を読んだということは、非人情はどうやら「文体」を通じて感得せらるるもののようである。
なるほど。
「非人情」に徹するためには、「非人情本」を読むにこしたことはないのであるが、「非人情」とは畢竟「距離感」のことであるから、手近な同時代人や同じようなメディア業界人の「非人情本」ではまるで用を為さない。
やはり遠い異国の物故者のうちにお手本を求めるのが筋目なのであろう。
と思っていた折りも折り、たまたま手に取ったシビル・ラカンの『ある父親』(永田千奈訳、晶文社、1998年)に、ジャック・ラカンがどれほど非人情(彼の場合はプラス不人情)な父親であったか活写してあった。
まことに学ぶことの多いラカン老師である。
ジャック・ラカンはご存じのようにマリー=ルイーズ・ブロンダンとの間に三人の子どもがいた。
また、ジョルジュ・バタイユの妻であったシルビアとも内縁関係にあって、ジュディットという娘がいた。
シビル・ラカンとジュディット・バタイユはほぼ同じころに生まれている。
このころ、ラカンはパリの正妻とマルセイユの内縁の妻の間を(ということはナチ統治下のフランスとヴィシーのフランスの「国境線」を超えて)毎週シトロエンで行き来していたのである。
パリではオテル・ムーリス(ゲシュタポの本部があったところ)に出入りし、マルセイユでは警察署に乗り込んで、シルビアがユダヤ人であることを示す書類を勝手に持ちだして破り棄てたりしている。
いろいろな意味でタフな男である。
ラカンのシビルに対する非人情ぶりを表すエピソードをひとつご紹介しておこう。
ある晩シビルは父とレストランで食事をした。夕食後、シビルの運転するオースチンで娘は父親をリール通りの家まで送った。

「別れ際に父は言った。
『じゃ、気をつけて帰るんだよ。家に着いたら必ず電話しなさい』」
シビルは父親のめずらしい気づかいに驚くが(ラカンは「そういうこと」を決して言わないタイプの男なのだ)、話を合わせて、家に着いたら電話すると約束する。
「寝ている父を起こすことになると悪いので、家に着くと一刻をあらそうに電話をかけた。
『もしもし、えっ。だれだい。ああ、お前か。どうした』
父は私の声に驚き、わたしは先ほどの約束を思い出してもらうまで説明しなくてはならなかった。」(69頁)

シビルは卵巣の手術で入院することになる。
ジャック・ラカンが花束をもって見舞いに来た。
病人に対するお約束の挨拶を終えたあと、ジャック・ラカンはベッドの足元にひざまずいて、敬虔なカトリック信者だけがするような不自然な祈りの姿勢に入った。
シビルはもちろんそれが何を意味するか知っていた。
ラカンは「セミネールの準備」をしていたのである。
ラカンは超人的な集中力の持ち主で、仕事中は回りで何が起きてもまったく無関心であった。
イタリアでバカンスを過ごした夏、シビルと父親はモーターボートで海に出た。
すばらしい風景がひろがっていた。
だが、夏の光と海の風と歓喜する娘とボートの震動をまったく無視してラカンは「鉱物のように」硬直したままプラトンを読み続けていて、ついに一度も本から目を上げなかった。
シビルは父親が泣いたところを二度しか見ていないと書いている。
一度は長女のカロリーヌが死んだとき、もう一度はモーリス・メルロー=ポンティが死んだときだそうである。
ラカンの非人情もメルロー=ポンティを失うことの欠落感には耐えられなかったのである。
非人情にまつわる佳話である。
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