フェミニンな時代へ

2006-04-14 vendredi

朝の礼拝で新任教員のみなさんのご紹介がある。
新任は9人。
アメリカ人が二人、イギリス人が一人、中国人が一人、ロシア人が一人、日本人が四人(全員女性、うち一人はカナダ在住)。
日本人男性の新任教員が一人もいない。
これは(日本人男性には)たいへん申し訳ないけど、「徴候的」な風景だと思う。
公募の場合、倍率100倍を超えるポストもあった。
最終選考に残った候補者の「全員が女性」という話をいくつか聞いた。
これは私たちの社会のこれからのあり方をかなり先駆的なしかたで予兆するものだろうと思う。
社会的能力の開発において、どうやら性差が有意に関与し始めている。
個人的な印象でも、私が仕事でかかわる出版社系の編集者は80%が女性である(新聞社系は依然として男性が圧倒的に多いけれど)。
どちらが仕事がやりやすいかというと・・・
さしさわりがあるので、ちょっとあれですけれど、正直申し上げて、女性のエディターの方がずっと仕事がしやすい。
男性の編集者はしばしば「ウチダにこういうものを書かせたい」という明確なプランをもって登場する。
話をしているうちに、私は必ず観念奔逸状態になって、わけのわからないアイディアをうわごとのように繰り出す。
男性編集者はこれをあまり好まれない。
苦笑いして聞き流し、「で、話はもとに戻りますが・・・」と仕切り直しをしようとする。
女性編集者はまずそういうことがない。
話が脱線に脱線を重ねることを厭わない。
「ね、こういうのどう?」
「あ、いいですね。それ面白いです」
「でしょ、でね、さらにこういうふうになるの」
「いいですいいです。それですよ」
「でしょでしょ、そこで、こうなるの」
「きゃー」
というようなアナーキーな展開は女性編集者相手ならではのものである。
彼女たちは、私に原稿を書かせようとやってきて、ぜんぜん違う人にまるで違う原稿を書いてもらう企画を私から聞き出して満足げに帰ってゆく・・・というようなことが間々ある。
男性編集者でも私が「たいへん優秀」と評価している方々は総じて「おばさん」体質である(誰、とは申しませんが)。
だんじりエディターとかワルモノS石さんは外形的にはマッチョ系であるが、実は意外やフェミニンな内面の人なのである。
これからは「女性の時代」になるであろうと私は先般日経のエッセイに書いた。
それは「フェミニズムの時代」が到来するということではない(それはもう来ないことがわかっている)。
そうではなくて、「フェミニンな時代」が到来するということである。
これはおそらく地殻変動的な水準で起きていることで、個人の決断や努力でどうこうなるものではない。
それがどういうものであるのかを(すでにワインを飲んで相当酔っぱらっている)私の頭で予言することはできないが、私はそういう社会が到来することを確信している。
「嫌韓流」というムーブメントが圧倒的な仕方で噴出した韓国文化への愛着への反動であるように、「改憲」や「ナショナリズム」は、この「フェミニンな日本」への怒濤のような趨向に対する必死の抵抗の徴候であるように私には思われる。
いま女性が男性を評価するときの社会的能力としていちばん高いポイントを与えるのは「料理ができる」と「育児が好き」である。
この一週間、私は『オールイン』に惑溺しているが、イ・ビョンホンがいちばん美しく見えるのは、後ろ回し蹴りですぱこーんとワルモノを蹴り倒す場面ではなく、「愛している」と言えずに「つーっ」と涙が頬を流れるときの「やるせない」表情である。
そうなのだよ諸君。
共同体が求めているのは「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男なのであるが、そのようなやわらかい感受性をもった男性を育てるための制度的基盤を半世紀にわたって破壊してきたことに私たちは今さらながら気がついたのである。
アメリカの黄金時代が、アメリカの若者たちがすぐにべそべそ泣く時代であったように(ジョニー・ティロットソンとかボビー・ヴィーとか、泣いてばかりいたぜ)、日本はこれから「泣く男」をもう一度つくり出せるようになるまで劇的な社会的感受性の変化の地層を通り抜けることになるであろう。
うん。
酔っぱらってるから、言ってることには責任持ちませんけど。
--------