授業が始まる。
ひさしぶりに授業でしゃべる。
三年生のゼミと大学院のゼミ。
一週間でいちばん気楽な火曜日である。
教室で学生さんたちを相手にするときの緊張感は、講演会やカルチャーセンターで話すのとは違う。
こういってはせっかく来て頂いている方々には失礼だけれど、講演会やカルチャーセンターのオーディエンスに対して、私は「教育する責任」を負っていない。
もちろんオーディエンスだって「教育なんかしなくていいです」と思っておられる方が過半であろうから、それでよろしいのである。
学生は違う。
彼女たちは授業料の対価としての教育サービスを求めに来ているというだけではない。「それ以上のもの」を求めてきている。
「それ以上」とは何か。
それは彼女たちにもよくわからない。
よくわからないけど、「なにかいいこと」がそこにはありそうな気がするから大学に来る。
この点で教育は市場原理と一線を画す。
ふつう自分が何を買いたいのか知らないものは市場に行かない。
市場に行く人間は、自分が何を買いたいか知っている(それが模倣欲望やメディアの煽りの効果であったにしても)。
少なくとも知っているつもりでいる。
大学に「どんないいこと」があるのか、学生たちはほとんど知らない。
むしろ「どんないいことがあるのか知らない」ということが「大学に行きたい」という欲望を駆動している。
学生たちから感じるのは、売れ筋の商品を並べて接客している商人が感じるものとは違う種類の「渇望」である。
人気商品の前に客が列をなしているときに、商人は客が何を求めているか熟知している。
「はいはい、ちゃんと列を崩さないで待ってて下さいね。はい、押さないで、押さないで」
ところが、学生がずらりと並んでこちらをみつめている教壇の上で、教師は学生たちが何を求めているのか、ぜんぜんわからない。
なにしろ先方だって「なにかいいこと」ありそうで大学に来ているだけであって、教師にむかって「あれ、ください」というほどはっきりと教育サービスのスペックを知っているわけではない。
何を買いに来たのかわからない客と、何を売っていいのかわからない商人が、なんとなくぼおっと向かい合っている状態。
それが大学の新学期である。
私はそういうアモルファスな、欲望の星雲状態が好きである。
幸福な気分になる。
大学院は聴講生、院生、その他(って何だろう?)で40名ほど。
今年は現代日本論を講ずる。
もちろん例のごとく講義はそのままMDに録音して本にしてしまうのである。
ミシマくんもいい加減テープ起こしに飽きて、もうNTTからは出してもらえないかもしれないけど。
東京の大学院を休学して、阪神間に引っ越してきたツワモノがいる。
週一の大学院の他に、多田塾甲南合気会にも入門し、甲南麻雀連盟にも参加のご意向である。
剛胆というか無謀というか。
とりあえず歓迎麻雀大会での「手痛い祝福」(常套句)でお迎えせねば。
授業の合間にAERAの取材。
「私の人生を変えた三冊の本」とかなんとかそういう特集。
メールでアンケートが来たので、適当に思いつくまま、山本鈴美香『エースをねらえ!』、エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』、エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』の三冊を書いて送り返す。
よほど選書が変だったのか、どうしてそんな変な本で人生が変わってしまったのか知りたい・・・ということで東京から取材にお越しになったのである。
取材に来られたのは朴順梨さんという女性ライター。
彼女が思いがけなくマンガのヘビーリーダーであったので、たちまちマンガ話に熱中。
『エースをねらえ!』幻の第三部の話などを熱く語ったが、もちろんそんな話はAERAには出ないのである。
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(2006-04-12 16:02)