愛神愛隣

2006-04-06 jeudi

入学式、オリエンテーションと、新学期の仕事が続く。
入学式でもまた『マタイによる福音書』を拝読する。
式の前に松田入試部長から「まさか、人前で聖書を読むような巡り合わせになるとは思っていなかったでしょう」と囁かれる。
ほんとにね。
まことに「一寸先とは闇」である。
しかし私は非キリスト教徒であるが、聖書を読むことには少しの心理的抵抗もない。
考えてみたら、二十代からずっと座右において(文字通り机の右側にずっと仏和辞典と並んで置いてあった)、繰り返し読んだ本である。
神を愛するとはどういうことか、隣人を愛するとはどういうことか。
これはレヴィナス老師の終生の問いであり、私もまた師に従って、その問いをうけとめてきたのである。
「神を愛し、隣人を愛す」というのはラビ・ヒッレルの言葉だと飯先生から教えて頂いた。キリスト教の成立よりはるか以前からユダヤ教の重要な教えとして説かれていたことばである。
「隣人をあなた自身のように愛しなさい」という第二の掟を私たちは博愛主義的な常套句だと考えるかもしれないが、これは解釈することの困難な掟である。
もし、この掟が、「私」がいて、「隣人」がいて、その間に友好的な関係を架橋することを指示しているとしたら、この掟はさまざまな背理にさらされることになる。
というのは、その場合「愛する」という行為の原型は「自己愛」になるからである。
「私は私を愛している」ということが不可疑の原点にあり、その上で、その自己愛を模して、隣人を愛することが命じられている。
だが、私たちは「私は私を愛している」という感情を、人間関係の原点にすえることができるほど熟知していると言えるだろうか。
例えば、自己嫌悪という感情は私たちにはなじみのものだ。
自己との違和感は思春期の少年少女のほぼ全員に取り憑く。
自殺する人間は日本だけで毎年3万を超えるが、彼らにとって「私は私を愛している」ということは自明のことだったとは言いにくい。

というところまで書いて、おおこのネタをそのまま日経の連載エッセイに書いてしまおう・・・と思い立ち、新しいファイルに続きを書く。
さらさら。
はい終わり。
というわけで、ブログでのこの話題はここでおしまい。
え? 途中で止められると気分が悪い?
そうですよね。話の途中だものね。
では、続きを書きます。

「自分自身を愛する」と口で言うのはたやすいし、そんなことは日々自然のうちに行っていると私たちは考える。
だが、私たちは果たして「自分自身を愛する」というのがどういうことかわかっていると言えるだろうか。
日本では毎年三万人以上が自殺する。
彼らが「自分自身を愛していた」とみなすことはむずかしい。
自己嫌悪や自己との違和感に苦しむ人は数え切れない。
自分の感情を押し殺して、生活のためや野心のために、やりたくないことを自らに強いている人もたくさんいる。
解離性人格障害の人だっている。
彼らは「自分自身を愛する」ということを本能的に、ナチュラルにできていると言えるだろうか。
たぶんできていないと思う。
彼らがうまく自分を愛せないのは、おそらく「ほんとうの自分」という幻想的な「中枢」があって、それに他のすべてが従属している状態を理想として描いているからである。
「ほんとうの自分」とか「自分らしい自分」とか「オリジナルでユニークな、世界でひとりだけの私」というようなものがどこか自分の内部の洞窟の奥に秘蔵されていると思いなしている人間は、たぶん雑多な人格要素がアモルファスに混在している現実の自分をそのまま愛することができない。
誰でも、自分の中に弱さや醜さや邪悪さを抱えている。
それらを「愛する」というのは「どうしてそのような要素が自分の中にあるのか、来歴も知れず、統御もできないけれど、とりあえずそれと折り合ってゆくしかない」と思い切ることである。
自分の中のさまざまな人格的ファクターをゆるやかに包括しつつ「共生する」ということは、自分の脆弱性や邪悪さに「屈服する」ということとは違う。
私たちが隣人をうまく愛せないでいるのは、「自分自身を愛すること」は本能的な行為であり、誰でも現にそうしているという誤った前提に立っているせいではないだろうか。自分自身をうまく愛することができない人間に、どうして「おのれ自身を愛するように」隣人を愛することができるだろう。
「愛する」とは理解や共感に基づくものではない。
むしろ「よくわからないもの」を涼しく受け容れる能力のことである。
おのれのうちなる他者と共生することのできる能力、おそらくはそれが隣人を愛する能力、神を愛する能力につながっている。

翌日はオリエンテーション。
新入生640人を前に、教務部長訓話というものをする。
彼女たちはいわゆる「ゆとり教育」の第一世代である。
「2006年問題」と呼ばれる「恐るべき学力低下」を見込まれている学齢集団である。
でも、静まりかえって私の話を聴いている講堂いっぱいの学生たちからは、そのような雰囲気は感じられない。
諸君、ご入学おめでとう。
諸君がどんな学生なのか、まだわからないけれど、諸君は神戸女学院大学が提供する教育資源を豊かに享受してくれるはずだという「希望」に私は一票を投じたいと思う。
教師が学生に贈ることのできる最良の贈りものは「君たちの知性を信頼している」ということばだからだ。
これからの四年間が諸君にとって豊かな日々でありますように。
--------