おでかけの日々

2006-04-08 samedi

「内なる他者とは何であるか」という問題について長い時間をかけて文章を書いて、おでかけの時間になったのでそのままセーブして立ち上がったつもりだったが・・・家に帰ってきたら暗い部屋にPCだけが点灯していたので、なにげなく電源を切ってしまった。
朝起きたら原稿が全部消えていた。しくしく。
泣くことはないだろう。また書けばいいじゃないか。どうせ自分が書いたものなんだから。
そうおっしゃるかも知れない。
でも、私がものを書いているとき、書いているのは半分かた「別人」なのである。
この「別人ウチダ」が憑依しているときに書いたものは、ふだんの私によっては再現できない。
パソコンの横には、『ユリイカ』の2005年4月号が開いてある。
何かの文章をそこから引用している途中で時間になって立ち上がったのである。
たぶんこの文章らしいというところまでは思い出せるのだが、どういう文脈でその文章を引用しようと思い立ったのかは思い出せない。
文章を書いているときは、「まだ書いていないこと」について漠然とした見通しがあって書いている。
その「まだ書いていないこと」が書いているときには非常にクリアーなヴィジョンなのに、少し時間をおいて机に戻ると思い出せないことがある。
そういうときは書いたものをはじめから読む。
読んでいるうちに、自分が書いた文章に身体がなじんできて、「ああそうだ、あっちにゆくつもりだったんだ」ということがわかってくる。
立ち上がって台所に来てから「あれ? 何しに台所に来たんだっけ?」というときは(そういうこと最近多いです)、もう一度動作の出発点まで戻ると、「台所へ行く」必然性を思い出すのと同じである。
今回は全部消えちゃったので、話の出発点が思い出せない。
たしか「文章を書くときの基準」とは、「20年前の自分、20年後の自分」が読んでも理解できるものであること・・・というような文言を書きつけていた記憶があるが、定かではない。
もういいや。忘れよう。
「ラリっているときに知り合った人とはラリっているときにしか出会えない」ラリハイの法則(@山下洋輔)と同じで、「憑依しているときに浮かんだアイディアには、また憑依したときにしか出会えない」のである。

おでかけが続いている。
一昨日は増田聡くん明日香さんご夫妻と梅田の「あげさんすい」でご会食。
増田くんはご案内のとおり、『ためらいの倫理学』刊行のそもそものきっかけをつくってくれて、私が物書きとしてデビューできることになった恩人である。
今般東京での二年間の浪人生活を切り上げて大阪市立大学の専任講師として帰阪されたのである。わーい。また遊べるぞ。
この二年間の増田くんの生産力には驚嘆すべきものがある。
『音楽未来形』(洋泉社)、『クラシック音楽の政治学』(青弓社)、『その音楽の〈作者〉とは誰か』(みすず書房)と立て続けに著作を出した。
東京でも若手の学者たちと親交を深めていらしたようで、ひさしぶりに会ったら、なんだか風貌に凄みが出てきた。
もう「ロック少年」じゃなくて、「ロック中年」ですよと笑っていたけど、増田くんも今年35歳になるのである。
増田くんとはじめてあったころはまだ彼も二十代独身で、「後生恐るべし」ということばを私が実感したはじめての人だった。
その増田くんから最近の若手学者たちの動静についてお伺いする。
増田くんの一押しは北田暁大、高原基彰のお二人。
その高原くんの『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書)が「オススメです」ということで、翌日早速購入。
まだ二十代の研究者である。
レイザーシャープな若い人がどんどん出てくる。
増田くんを含めて、若手たちは微妙に「切れすぎる」という感じがする。
「切れすぎる刀」は抜き身では持ち歩けない。
だから、「鞘」をそれぞれに工夫されることになる。
「ごりごりの学術性」というのがいちばんオーソドックスな「鞘」で、これにくるんでいると、ふつうのひとには切れ味がわからない。
「上の空」とか「専門バカ」というのは、そのような「鞘」のかたちである。
もう少しアフレッシヴなひとは別の「鞘」をみつけだす。
「脱力」とか「笑い」というのがそれである。
最後に(笑)をつければ、どれほど本筋のことを言い切っても、とりあえず「鞘」には収まる。
切られた方も切られたことがわからずに、いっしょに笑っていたりする。
でも、いちばんよい鞘は「愛」である。
「学術性」や「笑い」によって切れ味が「増す」ということは起こらない。
「愛」はそうではない。
知性の切れ味というのは、平たく言えば、「誰かを知的に殺す武器としての性能の高さ」のことである。
その性能は、「知的にも、霊的にも、物理的にも、ひとを損なってはならない」という禁戒とともにあるときに爆発的に向上する。
そういうものなのである。
愛は憎悪と対になり、それと葛藤するときに深くなる。
憎悪は愛と葛藤するときに深くなる。
知性と愛の関係もそれと変わらない。
学術性とは愛の深さのことだ。
甲野善紀先生の「斬り」は刀を垂直に下ろす力と水平に切り裂く力を同時に刀にかけることで成立しているそうである。
この斬りは重くて受け止めることができない。
フロイトは『トーテムとタブー』で、身近な人が死んだとき、残された遺族は「強迫自責」に苛まれると書いている。
もっと孝養を尽くすことができたのではないか、もっと愛情を注ぐべきだったのではないか・・・というとりかえしのつかない思いに遺されたものは苦しむ。
フロイトによれば、それは彼らが無意識のうちに愛する人の死を願っていたからだ。
自分が愛する人の死を願っていたという心的過程をもちこたえるほど人間はタフではないので、その殺意は「悪魔」というかたちで外部に投射される。
そうやって「死霊の来訪」という心的現象が構成されるのである。
だが、私はこのフロイトの説明には「裏の読み筋」があると思う。
自分の愛する親や子や配偶者の死を願っているという心的過程は「事実」としてあるのではない。
死者に対する愛情が深いときにだけ強迫自責は起こる。
死者に対する殺意などつゆほどもありそうもない関係に限って強迫自責は起こる。
なぜか。
たぶんこういうことではないかと思う。
愛する人が死んだとき、私たちは「もっと愛したい」と思う。
「もっと愛しておけばよかった」という過去への悔悟はそのまま「もっとこの先も愛し続けたい」という未来への投企に読みかえられる。
愛情を亢進させるもっとも効率のよい方法は、愛情と葛藤するものを呼び寄せることである。
「私には死者にたいする無意識の殺意があった」という自責は私の死者にたいする愛情と非妥協的に葛藤する。
この自責に耐えるためには、私の死者に対する愛情をさらに高めるしかない。
私はこんなにもあの人を愛していたし、現にこんなふうに愛したし、死んだあとも愛し続ける・・・と「殺意」を否定するために、大量の心的エネルギーが「愛」に備給される。
奇妙な話だが、私たちは誰かに対する自分の愛情を高めるために、それと葛藤する心的過程(憎悪や嫉妬や殺意)を呼び寄せてしまうのである。
それと同じことが逆の行程でも起きる。
殺意は愛情を亢進させる。
学術性とは愛の深さのことだというのは「そういうこと」である。
人間の人間性を基礎づける戒律が「神を愛しなさい」と「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」の二つであることと同じである。
愛だけが人間のパフォーマンスを爆発的に向上させる。
むしろ、人類の始祖は知性と霊力と体力を爆発的に向上させるために「愛」という概念を発明したのかもしれない。
ことの順序としてはそのほうが「ありそうな話」である。

昨日は日経の連載エッセイ「旅の途中」の執筆者懇談会。
梅田で晩ご飯。
興福寺貫首の多川俊映老師、歌人の道浦母都子さん、作家のかんべむさしさんが執筆陣である。
洒脱なる多川老師のお隣に座った。
最近なんとなく「仏教」とのかかわりが深くなっている。
何かの「流れ」が来ているのであろうか。
南都興福寺は和銅3年(710年)平城京遷都のときの建立である。
そういう霊的伝統の中に位置づけられているというのはどういう気分のものなのであろうか。
老師とはいきなり、神仏分離、廃仏毀釈という運動がどういう政治史的・宗教史的文脈で起きたのかというコアな話題になる。
廃仏毀釈は明治維新の直前、幕末の騒乱のなかで決定されたのだが、誰がどういう政治的意図をもって行ったことなのか、宗教界ではどういう議論があったのか、ほとんど知られていない。
このときに6世紀推古朝以来の日本の仏教の伝統が断絶した。
ある種の「文化大革命」である。
神仏習合という中世以来の日本の霊性の構造はそのときどのように変化したのか。
急に興味がわいてきた。
靖国問題の原点は意外にこのあたりにあるのではないか。
多川老師とはさらに能楽のお話もはずんで、ぜひ次回の「釈先生とゆく観仏ツァー」は南都興福寺阿修羅像、運慶の作品など拝観させてくださいと墨染めの衣の裾にすがってお願いする。
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