吉田城君追悼文脱稿

2006-04-02 dimanche

松本竜介が死んだ。
享年49歳。
毎日新聞の死亡記事には『オレたちひょうきん族』で「売れない方の相方」三人で「うなずきトリオ」を結成して「うなずきマーチ」を出したこともあると書いてあった。
「うなずきマーチ」は大瀧詠一師匠の作品である。
歌手が音程をはずした録音がCDで聴けるレアな例である。
合掌。
隣の死亡欄にはジャッキー・マクリーンが死んだという記事が出ていた。
享年73歳。
私たちの年代にとってジャッキー・マクリーンは何よりもマル・ウォルドロンの『レフトアローン』の冒頭の切り裂くようなアルトサックスのブロウが耳の奥に残っている。
新宿のDIGで1967年にこのレコードを繰り返し聴いた。
その時期に私がいちばん聴いたのはフランク・ウェスの『In a minor groove』とこの『Left alone』である。
いまでもフレーズの断片が聞こえると、DIGの冷房の匂いとショートピースの紫煙と苦い珈琲の味と十代のいたたまれないような苛立ちをありありと思い出す。
合掌。

小田嶋先生が私のブログをTBして下さった。
うれしいことである。
私が吉田城君と日比谷高校ことを書いた記事に寄せて、小田嶋先生はその数年後の都立進学校の高校生の「エートス」について爆笑的エピソードを書いている。
日比谷高校にも小石川高校にも、灘や麻布や神戸女学院にもそれぞれの校風があり、それを一度でも吸った人間は、その残存臭気を消すことができない。
「その残存臭気を消そうとする」否定のみぶりそのものまでが、「残存臭気を意識している」ということを逆証してしまうからだ。
もちろん日比谷高校にも「日比谷高校らしくない生徒」はたくさんいた(私がその代表だ)。
私はぜんぜんスマートではなく、ソフィスティケートもされてなく、ミスティフィケーション抜きの向上心むき出しの「たいへん感じの悪い」ロウワーミドル階層出身の子どもであった。
でも、自分が「そういうふうなことばづかいで類型化される」人間だということは日比谷に行くまで気がつかなかった。
「それのどこが悪い」と居直って、私は校則を破り、教師に噛みつき、同級生を罵倒し、あげくに高校を中退してしまうけれど、これは私が日比谷高校的なものに過剰反応したことの結果であって、私が日比谷高校的なものと無縁であったからではない。
すり寄るにせよ、反発するにせよ、つねに「日比谷高校的なエートス」(それはもちろん幻想にすぎない)との距離をはかりながら自分の立ち位置を決めるときに、幻想が現実を圧倒し始める。
吉田君の追悼文は京大から出る追悼号に掲載される。
吉田君の知友や教え子には配布されるだろうが、京大や仏文学とかかわりのない方はたぶん読む機会がないだろう。
でも私は吉田城君という希有な才能をできるだけ多くの人に記憶しておいて欲しいと思うので、いずれ追悼号が出た後には、このブログに全文を転載しておきたいと思う。
二度目の予告編ということで、今日は改稿した冒頭部分を採録。

吉田城君は1966年に僕が東京都立日比谷高校に入学したときの同期生である。
 でも、僕が吉田君とはじめてことばをかわしたのは高校においてではなく、1969年の1月、入学試験の数日前の京都大学構内でのことである。
その年、東大の入試が中止になり、日比谷高校生たちの半数ほどが京都大学に受験にやってきた。僕はその前年に品行不良で退学させられたのだけれど、秋に大学入学資格検定に合格して、なんとか同期生たちと同時に受験するのに間に合った。僕は単身で京都に行ったが、日比谷の諸君は何人かづつ連れだってやってきた。その中に新井啓右君がいた。
新井君が同期で最高の知性であることは衆目の一致するところだった。いずれ新井君が同時代日本人の中でも最高の知性であることを学術の世界か政治の世界で証明するだろうと同期生はほとんど確信していた(惜しいことに、彼は東大法学部の助手のとき二十七歳で急逝した)。
 僕はなぜか新井君と仲が良かったので、受験会場の下見にゆくときに新井君のグループに加えてもらった。その中に吉田城君がいた。それが吉田君と個人的にことばをかわした最初である。
そのときに彼とどんな話をしたのか、何も覚えていない。なにしろ四十年も前のことだし、僕たちが京大構内に足を踏み入れるなり、火炎瓶が飛んできて、話にも何もならなかったからだ。粉雪の舞う曇り空にオレンジ色の焔の尾を引いて火炎瓶が放物線を描いて飛んでゆく時計台前の風景はなんだかやたらにシュールで、大学受験というような切実な話とぜんぜん無縁のもののように思えた。
「受験はほんとにあるんだろうか?」と僕たちは近くの喫茶店で話し込んだような覚えがある。いつものように新井君が怜悧で落ち着いた声で「いや、やるでしょう。そりゃ」と断定してくれて、一同はほっとした様子だったが、僕は内心「試験なんかなくなればいいのに」と思っていた。高校二年で学年最下位にまで成績が下がり、その後も十六科目も受験科目のある大検のせいで、受験準備が大幅に遅れていた僕は「だめもと」の京大受験だったからである。

以上、予告編終わり。
予告編なのに吉田城君がほとんど出てこないな。
この同じ年に高橋源一郎さんも京大を受験している。
前にも書いたけれど、もし69年に私と高橋さんが何かの間違いで京大に受かっていたら、吉田君のその後の学者としての業績はあれほどブリリアントなものにならなかったのではないかという気もする。
だって、絶対邪魔しに行ったからね。
「よしだくーん。勉強なんかいいから、デモ行こうよ」
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