東京出稼ぎツァー

2006-03-23 jeudi

東京へ。
斎藤孝さんと対談。
『中央公論』のためのお仕事である。
お題は教育とコミュニケーションと身体について(もりだくさん)。
『声に出して読みたい日本語』で洛陽の紙価を高めた斎藤さんとお会いするのははじめてである。
私も斎藤さんも「コミュニケーション」とか「対話」とか「身体知」とかいうことを専門にしている人間であるので、「その二人を対談させてみたら、ぜんぜん話がはずまなくて、受け答えがぎくしゃくしててさ・・・」ということになると笑い話である。
あるいは『中央公論』のイノウエくんはそういう展開は展開でまた「ネタ」になるとリスクヘッジをした上で企画したのかも知れない。
若いのにしたたかな青年である。
さいわい、私も斎藤さんも「座持ち」のよさでは定評がある人間であるから、対談はとんとんと弾み、あっというまに予定の時間をオーバーしてしまった。
「聴覚・運動系」を軸にしての言語運用能力の開発ということについては、斎藤さんと私はだいたい同じ意見である。
読んでもわからないことが聴いたらわかったということがある。
それは聴き取られた言語音はダイレクトに肺腑や腸や心臓に触れてくるからである。
例えば、私たちを深く傷つける言葉がいつまでも忘れられないという場合、それがかりに手紙に書かれた言葉であったとしても、脳裏をよぎるのは文字の「視覚映像」ではなく、「想像的に聴き取られた音」である。
私たちが語の意味を理解するのは、辞書的に語義がわかるからではない。
それの語が私たちの呼吸や鼓動や消化器や内分泌系の活動を変化させるからである。
「ウチダくん、私たちもう終わりだと思うの・・・」と女の子に告げられたときに、まず起きるのは身体的な現象である。
呼吸が浅くなり、動悸が速くなり、胃がきゅっと収縮し、こめかみがずきずきしてくる。
そのような身体的変化を通じて、私はそのメッセージが私にとってどういう意味をもつものであったのかを「事後的に」知るのである。
言語情報が入力されたときに、それをただちに複雑で多様な身体的変化に「変換」する能力がコミュニケーションの基礎にある。
「言葉が届かない人間」は、メッセージの辞書的語義は理解しているのだが、それが身体的変容をもたらすことがない。
だから、それが自分にとって何を意味するのか(生存戦略上有利なことなのか、不利なことなのか、それどう応じるのが最適オプションなのか)がよくわからない。
コミュニケーション感度のよい人間は、発話者が話し始める前に短く息を吸っただけで、続くメッセージがどの程度の重要性をもつものかを近似的に判定することができる。
そのときに発話者の体内で起きている変化(呼吸の、動悸の、内臓の、内分泌系の変化)の波動が「オーラ」として発散しているのを感知するからである。
言語運用能力の訓練とは、畢竟するところ身体感受性の訓練(合気道的にいえば「気の錬磨」)のことである。
というような話をするつもりで、ぜんぜん違う話をする。
この対談は『中央公論』の6月号(5月10日発売)に掲載される。
面白いから読んでくださいね。

斎藤さんとの対談があった京王プラザホテルからお向かいの住友ビルに移動して、午後6時半からは朝日カルチャーセンターで、平川君と対談。
お題は「日本人の無意識を問う」
WBCの話から始まって、ナショナリズム論、アメリカ論、野球論、プロレス論、憲法論、交易論、教育論、キャリアデザイン論・・・と話題は転々とする。
ふだん、ふたりで居酒屋でビールをのみながらしゃべっているときと話す内容はあまり変わらないのだが、オーディエンスがいる分だけふたりともテンションが上がり、「等価交換」の話をしているうちに不意にレヴィ=ストロースの言う「二重化された表象」ということばの意味がわかったような気になって、興奮してその話をする。
レヴィ=ストロースは交換とは「交換当事者双方において、二重化された表象が共有されること」というふうに定義していた。
「二重化」という語の意味がこれまでずっとわからなかった。
ライブドアの堀江元社長の「金で買えないものはない」というメッセージが多くの若者たちに好意的に受け止められたという出来事の意味について話しているうちに、そのことがわかった。
「金で買えないものはない」というスキームの「内側」にいる限り、すべては等価交換であって、贈与の余地はない。
けれども、「金で買えないものはない」というメッセージそのものは「金では買えない」。
もし、誰か「ホリエくん、どうもその言い分がわしゃ気に入らんのだ。どうかね、『金で買えないものもある』というふうにキミの発言を訂正してもらえんじゃろうか。金ならいくらでも出すよ」と堀江くんに提案した場合を想像してほしい。
そのときに、もし「金で買えないものはない」というのが汎通的な真理であると堀江くんが心底確信していたならば、ただちに「へいへい、売りやしょう。で、おいくらまでなら出せます?」と応じることだろう。
けれど、彼はおそらくその「買収交渉」には応じまい。
「金で買えないものはない」というのは彼の「パラダイム」だからである。
「パラダイム」は金では買えない。
若い人たちが堀江くんにエールを送ったのは、「金で買えないものはない」という私たちの時代の支配的なイデオロギーに対して、「『金で買えないものはない』というパラダイムは金では買えない」ということを全身をあげて表現したからではないか。
現に、彼に対する肯定的評価は、彼が「商習慣の陋習」や「古い業界体質」を打ち破った「功績」についてなされている。
「陋習」や「停滞」を打ち破ることで彼自身はたしかに経済的利益も得たけれど、それとは別に、若い人たちにある種の爽快感や夢を「贈った」。
さらに言えば、彼の最大の贈与は、その身を牢獄に繋がれるというかたちで完成したとも言えるだろう。
彼の逮捕の報に、多くの人々が「ざまあみやがれ」と快哉を叫んだ。
この爽快感は彼がいなければ味わうことのできなかったものである。
それは彼がおのれの身を供物として捧げることで私たちに贈与してくれたものである。
「私は等価交換しかしない。無償の贈与なんかしない」と言い続けることで、彼は(それと知らずに)ゆたかな贈与を同時代人に対して行ってくれていたのである。
あらゆる商取引では、表面における「等価交換」とは別の次元で「無償の贈与」が行われている。
贈与されるものは「それが贈与されるそのときまで、それに『贈り物』としての価値があることを贈る側も受け取る側も知らなかったもの」である。
それが贈与されたとき、それが「贈与である」と受け手が承認したその瞬間に、贈り物はその価値を生成するのである。
価値があるものが贈与されるのではなく、「これは贈与だ」と贈るものと贈られるものが「同時に承認したときに」、贈与されたものは価値を獲得する。
それが「二重化された表象」という術語でレヴィ=ストロースが言おうとしたことではないのであろうか。

対談終了後、編集者たちと池上先生がアレンジしてくださったパークタワーのバーで打ち上げ。
文藝春秋、新潮社、医学書院、バジリコ、毎日新聞社、講談社、集英社、朝日新聞社・・・など各社の編集者が集まる。
私の存在はこれらのほとんどの編集者のかたがたにとっての「不良債権」である。
なぜその不良債権がすすんで債権者にお集まり願うかというと、それは「債権者会議に集まる債権者の数が多いほど債務取り立ての厳しさは緩和する」という法則があるからである。
債権者がふえると、債権者同士で誰が優先的に債権を回収するかで小競り合いがはじまる
そのうちに「どうですみなさん。ここで短気を起こしてウチダを絞め殺しちゃ、誰も元がとれない。しばらくこいつに餌をやって放し飼いにしときませんか。そのうち太ってきて、卵をぼろぼろ生んでからから絞め殺しても遅くはないでしょう」というふうに合意形成がなるのである。
そんな時間稼ぎをしたからと言って少しも債務が減るわけではないのだが、とりあえず放し飼いにしていただけるとたいへんありがたい。
そのうち担当編集者が配置転換になったり、家庭不和になったり、鬱病で(原因は私だが)で入院されたり、定年退職になったりする可能性がある。
そのようにして、私がずるずると「放し飼い」にされているうちに債権自体が消滅するということもかなりの確度で期待できるのである。
各社の編集者と歓談のあと、池上先生の三軸パフォーマンスでみんな身体のゆがみを直していただいて散会(翌日の池上先生のおことば「編集者っていうのは、みんな身体がゆがんでるねえ。」)
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