『九条どうでしょう』プレミアム試写会

2006-03-22 mercredi

『九条どうでしょう』(毎日新聞社から3月25日発売、1200円)のご紹介をさせて頂きたい。
いっときますけど、このタイトル、私がつけたんじゃないですからね。
毎日のナカノくんです。
ということは、発音は「九条、どうでしょう?」というふうにいったん「九条」で切って、それから「どうでしょう?」と尻上がりに上がる疑問形のイントネーションではなく、「『九条どうで』賞」(演歌歌手の「九条どうで」さんを記念した歌謡賞を想像して頂きたい)というふうに平板に発音しなければならない。
この本は平川克美・小田嶋隆・町山智浩、そして私の四人の共著による憲法九条論である。
濃いメンバーである。
「たいへん濃い」と申し上げてよろしいであろう。
どういう基準で選ばせて頂いたかというと、「私が毎日読みにゆくブログの書き手」たちである。
ある事件が起きると、「この人だったら、どういうふうにコメントするだろう?」とどうしても知りたくなる人がいる。
別にその人の意見に従おうとか、その人の意見を参考にして自分の意見を修正しようとかいう理由からではない。
私が知りたいのは、私と「同じ結論」に違う理路からたどりつくことができるかどうかということである。
もし、他の人々が私と「同じ結論」に違う理路を経由してもたどりつくことができるのだとしたら、それは「私の結論」の相対的な妥当性をかなり高めることになる。
その点で、この三人は私の期待を裏切ったことがない。
たしかに、彼らはしばしば私が「事件」だと思っていることを事件視しない。
そういうときは「あら・・・空回りだったのね」と反省する。
しかし、同一の重要な論件を扱っているときに、結論が食い違ったことはない(はずである)。
憲法九条について、私は「あった方がいい」と思ってる。
これはジュリアン・ジェインズ風に言うと「神々の訓戒」であるところの、私の「右脳」のご判断である。
私の右脳がどういう思考回路でそういう結論を下されたのか、私にはよくわからない。
よくわからないので、「こういうことだろうか。それともこうか・・・」と左脳を駆使して、あれこれ理屈をこねまわしている。
驚いたことに、このお三方も私と同じように、「九条はあった方がいい」という結論は同じであるのだが、どなたも理由はよくわからないらしく、私同様「ああでもない、こうでもない」といろいろな理屈をつけている。
私は理路整然と説かれる命題よりも、「直感的にはこうなんだけど、どうしてそういう判断が成立するのか、よくわかんないんだ」という言明の方を信じることにしている。
そういう本である。
たいへん面白いので、ぜひ購入され、熟読玩味して頂きたいと思う。
というわけで、ブログ読者のみなさんには大サービスで『九条どうでしょう』の「予告編」をご覧頂くことにする。
四人の書き手がそれぞれの憲法論について加えたコメントである(これは毎日新聞のPR誌に掲載される予定)。
小田嶋さんが町山さんの憲法論を論じ、町山さんが小田嶋さんの憲法論を論じ、平川くんが私の、私が平川くんの、それぞれの憲法論を論じるという結構である。
共著者のみなさんのご了解を得たので、ここにフライング公開して、読者諸氏の「購入欲望」を喚起せんとするものである。

まずは町山さんから小田嶋さんへ
『闘うコラムニスト』
 小田嶋隆さんにお会いする前は、赤羽育ちと聞いてビビっていた。山手線の内側の中高生にとって赤羽は、電車を降りた途端にカツ上げされる東京ブロンクスと思われていた。だから小田嶋さんに対してべらんめいでゴロを巻いてるイメージを勝手に持っていたが、十二年ほど昔、『宝島30』という雑誌の編集者として初めてお会いすると、繊細そうで物静かで、全然アカバネしていなかったのでホッとした。
 小田嶋さんは『宝島 30』で毎号「愛の天誅シリーズ」と銘打って、天野祐吉、柴門ふみ、弘兼憲史、曽野綾子、秋元康、田原総一朗、渡辺恒雄、田中康夫などの悪口を書くという連載をしていた。僕は担当ではなかったが、傍から見て「きつい仕事だなあ」と思っていた。悪口といっても別に小田嶋さんが憎んでいる人ではなく、編集者から「次はこの人を叩けませんか?」と依頼されて書いていたからだ。「これがプロのライターの仕事か。辛い思いしていろんな人から嫌われて、大変だなあ」これでお金になればいいのだが、実はぜんぜん儲からない。というのも、僕がその連載を編集して単行本にしたのだが、売れなかったのだ。すみません、僕のせいです。
 今回、憲法九条について書くよう依頼された時、僕は最初、お断りしようと思った。憎まれ役になるに決まっているからだ。今の日本で憲法九条の旗色は非常に悪い。「憲法を守ろう」と言っただけでサヨクのレッテルを貼られる。まして僕は父親が韓国人の帰化人であることを明らかにしている。僕は日本や韓国について何かを書いたことはほとんどないが、自分のブログでアメリカのイラク攻撃に反対していたら、日本から「チョンは黙れ」「韓国に帰れ」といった匿名メールが山ほど来るようになった。それで憲法九条を擁護すればロクなことにならないのは想像がつく。
 政治家や世間の憲法論議を見ているとトンチンカンなことばかりだ。たとえば「五十年以上も改正しないのはおかしい」とか言ってるが、アメリカでは二百年も前に作られた憲法が使われている(修正条項を付加する方式だ)。勉強不足の憲法批判に対して樋口陽一先生など立派な研究家たちが異議を唱えているが、改憲派は耳を傾けない。それなのに僕ごときが何を言っても無駄にきまってる。無駄なことをしてわざわざ敵を作ってどうする。
 だけど、「小田嶋さんも一緒に書かれるんですよ」と聞いて、引き受けることにした。僕も今は一介のフリー・ライターだ。尊敬する先輩の小田嶋さんがこの損な役割を引き受けたのに、かつて小田嶋さんに無理な注文をしていた編集者の一人だった自分が逃げちゃまずいだろう。
 その小田嶋さんの九条擁護論だが、一言言ってはタメイキをつくような独特のリズムのオダジマ節が堪能できる傑作。「『公』という字を良く見てごらん。/ハムというのは、死んだ肉で出来ているんだぜ」など絶妙なフレーズが次々と飛び出す。「さすが!」と膝を打ったのは「九条を憎む人々が求める日本人像」を箇条書きにする部分だ。そこで小田嶋さんがどんな結論を出すか、知りたい人は本書を読んでください。

ううう、たのしみですね。
では次は小田嶋さんから町山さんへ。
『彼の話を聞け』
 町山さんについては、二通りの印象がある。
 ひとつめは、ずっと昔、拙著の編集を担当してくれた折に見せてくれていた顔=非常に礼儀正しいナイスガイのイメージだ。
 当時、アルコール依存症の最終段階にあった私は、酔っている間中嘘をつき続け、シラフに戻ると謝ってばかりいるという、非常に扱いにくいタイプの著者だった(と思う)のだが、そんな私に対して、町山さんは、終始、慇懃な好青年の表情を崩さなかった。編集者の職業的マナーといってしまえばそれまでだが、これはなかなかできないことなのだよ。怒鳴らないでいるということだけでも。
 もうひとつの顔は、記者、ないしはライターとしての顔で、これは、慇懃とは正反対の印象だった。
 町山さんは、『宝島 30』という雑誌の編集部で、受話器に向かって、またある時は、仲間うちの雑談の中で、はじけるような毒舌を展開していた。その語り口の見事さを、私は、部屋の片隅に設置された出張執筆コーナーで、面白く眺めていた。私が、編集部に出向いていたのは、主に進行上の理由(締め切りがあまりにも危機的だったのでね)ならびに、自宅にいると際限なく酒を飲んでしまうからということだったのだが、それはそれとして、私自身、そこの編集部を気に入っていたのだ。職業右翼や解剖医やエロビデオ業界の仕掛け人といった、いずれも一癖のある連中を相手に、永遠に終わらない交渉事を繰り返している台風の目の、その中心に町山さんがいた。いや、面白かった。
 今回、『9 条どうでしょう』の執筆陣に町山さんが含まれているという話を聞いた時、私は、ジャストミートの人選だと思った。
 というのも、九条は、日本人のために書かれた条文である以上に、国際社会に向けて放たれたアナウンスだと思うからだ。
 ここでいう「国際社会」は、単一な立場や場所を指す言葉ではない。むしろ、どこにも無い「架空の複合的な立場」すなわち、「矛盾した存在」そのものを意味している。つまり「九条」は、「誰か」や「どこか」といった特定の場所や、単一の国家・国民のための条文ではなくて、「aとbの間」のような「関係」に対して投げかけられた言葉であり、とすれば、底なしの井戸に投げ込まれた小石が着地点を持たないのと同じく、「九条」の解釈は「国際社会」のありように沿って、常に揺れ動かざえるを得ない。
 で、その「不可有国」としての「国際社会」を生身で体現している存在こそが、町山智浩、すなわち朝鮮半島出身の父親を持つ混血の帰化日本人だと、そういうふうに私は考えたわけだ。
 一般に、国籍、身分、セクシャリティーといった、自らのアイデンティティーについて疑いを持たない人々は、「他者」に対して鈍感で、それゆえ、「国際」について実のある思考を展開することができない。
 言い方を変えれば、町山さんのような、ほかならぬ自分の中に「他者」を見出すことを前提としたところでものを考える営為を続けた来た人でなければ、ぬえみたいな条文である「九条」の意図を正確に語ることは難しい、と、そういうことだ。
 わかりにくい?
 当然じゃないか。厄介な対象についての率直な原稿がわかりやすくてたまるかよ。
 とにかく、町山君の文章を読んでみてくれ。
 素晴らしくわかりにくくて、素晴らしく刺激的で、素晴らしく感動的なテキストだから。

わくわくしますねえ。
では次は平川くんから私へのコメント。
『内田樹の薬籠』
憲法の第九条と自衛隊の存在は、矛盾していると、護憲派も改憲派も考えている。普通に考えれば、九条を改定して継子の自衛隊を正嫡子として認めるか、あるいは自衛隊を解体して非武装中立の理想を前面に押したてるかの二者択一以外のソリューションは無いかのように見える。
 これまで、論じられてきたすべての護憲論・改憲論は、このどちらかの「正論」のバリエーションであるといってもよいかもしれない。そこでは、護憲・改憲のいづれの一方に説得力があるか、整合性があるかが争われることになる。しかし、整合性というなら、どちらにも、それはあるといわなければならない。なぜなら、どちらも整合性を求めた結果、二律背反的に存在している九条と自衛隊のどちらかを消し去るという理路に至ったのであるからである。では、この二派は一体何を言い争っているのか。
 この度の「九条論」で、内田樹は、このどちらとも異なる一見奇妙なソリューションを提示している。そして、この両論それぞれの無効性を宣告する。内田樹が、その薬籠の中に仕込んでいる薬石に対しての免疫がないと、彼の論は大変にトリッキィーに響くかも知れない。
もってまわった言い方はやめよう。彼は、挑発しているのである。誰を、か。内田樹がよく言う知性の定義は、「自分が何を知っているかではなく、何を知らないかということを知っている」ということで塔提されるものである。内田が「九条論」で展開しているのは、まさに旧来の護憲派も、改憲派も彼が言うところの知性の無い議論しかしていないじゃないかということである。「頭悪いんじゃないの」と内田は言っているのである。これに憤慨しても、内田が「頭悪い」という知性の枠組みの中でものを言う限り、言えば言うだけアホらしいということになってしまう。
ところで、内田が仕込んだ薬石とは、議論の次元を一つ繰り上げること。これだけのことである。これだけのことであるが、誰にも思いつかない。そして、これが内田樹の「方法」なのである。二つの相容れない意見に対して、「君たちは近親者である。一つのことの二つの側面を言い張っているに過ぎない。双方の論理的整合性というもの上位に、もう一つ上位の「常識」という舞台があるじゃないか」と言うわけである。内田的比喩で言うなら、ここでの内田の立ち位置は、「ラーメンとワンタンのどっちが客に受けるか」と論じている店員を前にして、ワンタンメンをすすりながら中華料理店の行く末を案じている店主のようなものである。(いや、これじゃ比喩になっていないか。)
 論の委細は、彼の憲法論の全文をお読みいただきたいのであるが、私は一読「腰が浮くほどおもしろい」と彼にメールを打ったのである。彼が自家薬籠中のものとしているもの。それは、実は極めて正統的なヨーロッパ批評史の果実のひとつであると私は思っている。それは「方法の発見」である。私がいつも彼の文章を読んで覚える快感は、例えばポール・バレリイを読むときに覚える愉悦と似ている。ほとんど同じ味わいだといってもいい。
─ 経験的に言って、人間はプラスのインセンティヴがあったからといって必ずしも「よいこと」をするわけではないが、ペナルティがなければほとんど必ず「悪いこと」をする。
─しかし、実際には、彼らはいずれも憲法九条も自衛隊もアメリカの従属国化の政略の一環であることを知っている。知っているけれど、自分がそれを知っていることを知りたくないだけである。
言われてみれば、あたり前じゃないかと思えるのだが、あたり前過ぎて誰もがうまく表現できないような常識(それこそが、常識というに値するものだ)から出発して、誰も思い浮かばなかった新しい問いに至る内田の「方法」は、挑発的でもありスリリングでもある。養老さんは、これを「対偶証明法」を形容したそうであるが、まさに慧眼である。
ポール・バレリイは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の構成を説明してこんなことを言っている。
─ この絵にはもはや神秘的という形容詞が切り離しがたくまつわりついているようだ。
(中略)神秘が、もし一つだけあるとしたら、それはこのような組み合わせをどうしてわれわれが神秘だと判断するのかという神秘である。(渡辺広士訳 『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』)
どうです。言われてみればあたり前じゃないかと思えるのだが、あたり前過ぎて誰もがうまく言えない常識が浮かび上がってきませんか。バレリイがレオナルドを斬り捌く手際で、内田樹は憲法第九条というものを斬り捌こうとしたのである。

すごいですね。「バレリイ」という表記がかっこいいですね。
で、最後は私から平川くんへ。
『詩人の憲法論』
 平川克美くんの前身は詩人である。
「前身」というのも変な言い方だけれど、「前世」というともっと変だから、とりあえず「前身」ということにしておく。
 今の平川くんはビジネスマンである。
でも、彼のビジネスの基本的な構えは彼が詩人であったときとあまり変わっていない。ぜんぜん変わっていない。
 本人は気づいてないかも知れないけれど、彼は、十代の終わりからたぶん一度として、詩人という立ち位置から動いたことのない人なのである。
 「詩人」というのはどういうものであるのかについて私が聞いた中でいちばん納得がいったのは高橋源一郎さんが下した定義である。高橋さんは二人の共通の友人の遺稿集に寄せた対談の中で、私を相手にこんなふうに言っている。
 「詩人はね、なまものの言葉を扱っているんで。言葉ってさ、今日築地から届きました〜とかって、要するにすごくいい加減だったりするわけです。理想と違うわけ、極端なこと言うと。でも、理想と違うからそんな言葉は使わないっていうんじゃ、詩人になれない。詩人というのは、そこにある今日届いた魚で料理しなければならないと思うんです。とりあえず手元にある材料で料理するのが詩人。こんなしょぼいので作れるわけないじゃないか、と怒るのが評論家。」(竹信悦夫、『ワンコイン悦楽堂』、情報センター出版局、2005年、410頁)
 高橋さんの話を聞いたときに、どうして平川くんが詩人であったのかも、その後もビジネスをやりながら、実はずっと少しも変わることなく詩人のままだったのかということにすとんと得心がいった。
むしろ、平川くんは詩人であり続けるためにビジネスマンにならざるを得なかったのかも知れない。ビジネスの世界というのは、「今日そこで届いた魚で料理する」ことしか許されない場所だからだ。「こんなしょぼい素材で仕事ができるわけないじゃないか。オレはもう今日は帰る。明日はもっといいビジネスチャンスを用意しとけよ」というような批評家的立場を取るビジネスは瞬間的に淘汰されてしまう。
だから、彼がビジネスについて語ることばはすべて詩について語っていることばとして解釈可能である。もちろん政治について語るときも。
現に、憲法について平川くんはこんなふうに書いている。
「憲法を憲法たらしめるのは、論理の一貫性といったものではなく、むしろ憲法を憲法たらしめている信頼、あるいは(他に適切な表現が思い当たらないのだが)信仰なのではないのかと思えてくる。いや、わたしにとって憲法問題とはまさにこの憲法(に書かれた言葉)への信頼という問題なのだと、わたしは思うのである。」
この文章の「憲法」を「詩」に置き換えると、それはそのまま平川くんの詩論になる。こんな文章だ。
「詩を詩たらしめるのは、論理の一貫性といったものではなく、むしろ詩を詩たらしめている信頼、あるいは(他に適切な表現が思い当たらないのだが)信仰なのではないのかと思えてくる。いや、わたしにとって詩問題とはまさにこの詩(に書かれた言葉)への信頼という問題なのだと、わたしは思うのである。」
これはほんの一例にすぎない。読者は平川くんの憲法論の全文の「憲法」の語をすべて「詩」に置き換えて読んで欲しいと思う。驚くべきことに、それはまさに全編が「詩論」として読むことができるのである。
どのようなことばも、それが存在の重みを持つのは、現実に基礎づけられているからではない。そうではなくて、ことばに現実を変成する力があるから詩のことばは自立しうるのである。
 「現下の問題は、この憲法に対する信頼、信仰というものが揺らいでいるというところにあるのであって、玄人筋が言うところの、憲法が世界の実情と矛盾しているというところにあるのではない。わたしはそう思っている。(…) なぜなら、憲法はリアルポリティクスに合わせた都合の良いルールというよりは、リアルポリティクスそのものにコミットメントする人間に規矩を充てるテキストでもあったはずだからである。」
 もう一度この文章の中の「憲法」を「詩」に書き換えて読んで欲しい。私はこれほど愚直なまでに熱い詩論を久しく読んだ覚えがない。

みなさん、書店に走り出したくなってきたでしょう?
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