猫型合宿(くう・ねる・あそぶ・フロ・めし・さけ・ねる)

2006-03-27 lundi

恒例の合気道合宿イン名色高原ホテル。
ここに来てもう9年になる。
今回の参加者は40名。過去最多である。
甲南合気会からの参加者が年々増えきて、男子も11名と過去最多。
人数が多いと、稽古内容も多彩になる。
同レベルの人だけを集めて、焦点を絞った稽古をする方が効率がいいという考え方もあるかも知れないけれど、私は初心者から上級者までランダムに混在している状態の方が好きである。
上級者には初心者に「教える」という仕事が課せられる。
「教える」ためにはその技の術理にについて、自分の言葉で説明し、その言葉通りに自分の身体を操作できなければならない。
これはただ「技をかける」ということとは別の能力開発を要求する。
初心者が「できない」とき、その「できなさ」には共通した特徴がある。
それは筋力とか関節の可動域とかそういうフィジカルな条件による規制ではない(それならとにかく無我夢中で動いているうちに上達するはずであるが、実際にはそうならない)。
「できない」のは身体操作の起点でのマインドセットが間違っているからである。
多田先生がいつも言われるように、稽古というのは「電車に乗って進む」ことである。
マインドセットというのは「目的地の設定」である。
いくら稽古を一生懸命やっても、東北新幹線に乗って京都にゆくことはできない。
でも、「京都行き」という目的地さえ正しく設定しておけば、乗っているのが鈍行でも横浜小田原熱海・・・といつのまにか京都に近づいている。
合気道の目的は(というよりひろく武道の目的は)、人間の潜在能力の最大化である。
「潜在能力」という言い方をすると、まるでひとりひとりの人間の中に固有の「能力の芽」のようなものが潜在していて、それに水をやったり肥料をやったりすると、だんだん開花する・・・というイメージを抱くかもしれないから、ちょっとまずいのであるが、ほんとうを言うと「潜在能力」は私たちの中に「潜在」しているわけではない。
それは「外部につながる」能力のことである。
たしかに人間の内側には「宝庫」があるのだが、その「宝庫」の扉を開いても、そこにダイヤモンドがあるわけではない。
扉が開くと、その向こうには「見たことのない風景」が拡がっているだけである。
人間の「中にあるもの」というふうに観念されているものは、実は人間の「外にあるもの」なのである。
内側に向かうのは、外に出るためである。
内側に向かうのは、「内と外」というスキームそのものの無効を宣言するためである。
ややこしいことを申し上げてすまない。
こう考えてもらえばよい。
人間存在というのは「インターフェイス」のことである。
何かと出会わない限り、「接触面」というものは生成しない。
ただし、あらかじめこちら「主体」がいて、あちらに「対象」があって、それが出会ってインターフェイスが生成するのではない。
インターフェイスが生成したことの事後的な効果として、出会う前にすでに「主体」や「対象」が自存していたかのような仮象を呈するのである。
恋愛がそうでしょう。
激しい恋愛感情はかならず「この人に出会うことが私の宿命であった」という印象をもたらす。
「宿命」というのは「既視感」のことである。
前に「どこか、ここではない別の世界」「いまではない別の時間の流れの中で」会ったような気がするのだけれど、思い出せない。
そして、そのとき「ここではない別の世界」「いまではない別の時間の流れの中」にいた「私」は「今ここにいる私より」も(奇妙な言い方だけれど)ずっと「本来の私らしい私」であったように確信されるのである。
しつこいようだが、ミニョンが「大晦日に君に言おうとしていた言葉を思い出したよ」とユジンに告げるときに私は号泣するわけだが、これは「私」が「遠い記憶の中にあるぼんやりした人間」との自己同定を果たしたときに、「もっとも私らしい私になる」という逆説が人間存在の核心に触れているからである。
「別人」であるはずのミニョンとチュンサンが同一化するときに、それぞれの固有の自己同一性よりもさらに深い自己同一性が到成する。
多くの人が勘違いしているが、私たちは「いかにも私らしい私」と自己同定することで自己同一性を成就するのではない。
そうではなくて、「それが私であるのか私でないのか、はっきりしないけど、なんか私っぽい?ような私」と自己同定するときにほとんど宇宙的な自己同一性に刺し貫かれるのである。
武道だってセッション・コミュニケーションである以上、そこで展開しているのは恋愛と同質のものである。
技を錬磨するのは、練度が上がるほどに、武術的インターフェイスの肌理が細かくなり、そこで起きる「出来事」の数が増し、「ここではない別の世界、いまではない別の時間」の中にいる「思い出すことが出来ないほど遠い記憶の中の私」のリアリティが増すからである。
その「あまりに遠いけれど、まちがいなくもっとも本来的な私」が無限消失点に向けて遠ざかって行くうちに、それはある種の「宇宙性」と溶け合ってしまう。
それは「私」の中に深い井戸を掘るような作業である。

合宿二日目は昇段級審査。
新三年生6人が初段。卒業するナオタロウが二段。石田 “社長” と井上 “弁護士” が二段。
そして、ウッキーとエグッチが三段となる。
これで、本会の三段位は松田先生、サトウさん、溝口さん、かなぴょん、くー、おいちゃん、ヤベッチにこの二人を加えて9人となった。
かなぴょんに続いてウッキーも四月から芦屋に自分の道場を開く。
「のれん分け」二人目である。
ますますの精進を期すのである。
昇段級祝い宴会の席で、次年度の幹部が発表される。
新主将はナガヤマさん。副将(会計)はモリタさん。部長は新二年生のイシダくん(うちのゼミの新四年生のイシダくんの妹さんである)。
恒例の在校生ミュージカルで卒業するナオタロウを送る。
ケンちゃんも四月から東京へ行ってしまう。月窓寺で稽古を続けるそうである。月窓寺のみなさん、どうぞよろしくお願いします。
去る人がいて、来る人がいる。
来月になると合気道部も甲南合気会も新しい仲間を迎えるはずである。
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