母語運用能力と『国家の品格』

2006-03-20 lundi

久しぶりの(一週間ぶりですね)日曜日。
天気がいいので、掃除をして洗濯をしてふとんを干す。
日経のエッセイが行数オーバーだと言われて書き直す。
どうも字数計算をよく間違える。
ただの足し算なはずなのだが・・・
今回の日経エッセイは「小学校に英語を教科として導入」という中教審の答申(予定)に対する不安と不満を綴ったものである。
教育の現場から繰り返し指摘されているように、外国語というのは母国語習得の後に学べば、母国語を批判的にとらえ返す生産的な契機を提供してくれるが、母国語習得と並行して学ぶと、どちらの国語も不十分にしか運用できない「セミリンガル」を生み出してしまう。
私たちは母語を話すときに文法規則というものを意識しない。
文法規則を学んで「ふうん、ことばってそういう仕掛けになっていたのか・・」ということに気づくのは古文や英語を学び始めてからである(古文は中学生にとってはとりあえず「外国語のようなもの」である)。
バイリンガルというのは、二つの国語を「母語のようなもの」として運用することのできる人であり、定義からして、どちらの言語をも文法規則というものを意識しないで使うことができる。
小学生まで日本にいて、日本語を文法規則を意識せずに使いこなし、中学から高校までアメリカにいて、やはり英語を文法規則を意識しないで使いこなせるようになって・・・という人の場合がそうである。
この人の場合、「言語の文法規則を体系的に学ぶ」ということをどちらの国においても学習していない。
その結果どういうことになるかというと、「流暢なのだけれど、微妙に不自然な言葉」をどちらの国語についても使うようになる。
そして、いちばん問題なのは、「微妙に不自然らしいことは、まわりの人のちょっとしたリアクションからわかるのだけれど、どこがどういうふうにおかしいのか自分には説明できないし、周りの人も説明できない」ということである。
「うーん、なんか変だよね。日本語ではそういうふうには言わないけどね、どうしてか知らないけど」
というようなあたりさわりのない訂正がときどき入るだけである。
もちろんその程度のことなら日常のコミュニケーションには何の不自由もない。
けれども、自分の使っていることばが「母語の自然で規範的なかたちである」という自信が持てないという事実は想像以上に重いものである。
何度も書いていることだけれど、「言葉の力」というのは、それが思考を適切に表現できるヴィークルとして性能がよいということではない。
ある名詞を口にすると、それを修飾することのできる形容詞のリストが瞬間的に頭に並び、ある副詞を口にすると、それをぴたりと受け止める動詞が続く・・・というプロセスが無意識的に高速で展開するという言語の「自律」のことである。
母語運用能力というのは、平たく言えば、ひとつの語を(場合によってはひとつの音韻を)口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する・・・というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。
「梅の香りが・・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。
「分岐点の細かさ」というのはわかりにくい言い方だが、「分岐点がない言語」を思い浮かべればわかる。
「分岐点がない言語」というのはストックフレーズのことである。
あることばを選ぶと、そのセンテンスの最後までが「まとめて」出力されるようなフレーズだけを選択的に言い続ける人がいる(校長先生の朝礼の言葉とか議員の来賓祝辞を思い浮かべればよろしい)。
ある語の次に「予想通りの語」が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。
「もう、わかったよ。キミの言いたいことは」
というのはそういうときに出る言葉である。
外国語を学ぶときに、私たちはまず「ストックフレーズ丸暗記」から入る。
それは外国語の運用の最初の実践的目標が「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」ことだからである(ホテルのレセプションや航空会社のカウンターや税関の窓口で)。
「理解される」というのは「それ以上言葉を続ける必要がなくなる」ということだからである。
自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたちである。
それは母語のコミュニケーションが理想とするものとは違う。
母語言語運用能力というのは、端的に言えば、「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」という心的過程を伴った言語活動のことである。
ストックフレーズを大量に暗記して適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プロセスに身を投じることは(結果的にはどちらも「たくみにある言語を操る」というふうに見えるけれど)内実はまったく別のことである。
というようなことを書こうと思ったのだが、違うことを書いてしまった(いつでもそうだな)。

午後に朝日新聞の取材。
ミリオンセラー藤原正彦さんの『国家の品格』について、著者の藤原さんへのインタビューと、私の読書感想を紙面に並べるという企画ものである。
たいへん面白く読みやすい本であった。
藤原さんの言っていることのコンテンツについては、ほぼ95%私は賛成である。
私が「私ならこういうふうには書かない」と思うのはコンテンツではなく、「プレゼンテーションの仕方」である。
「国家の品格」というのは誰が決めるのかということが問題である。
品格というものは本質的に外部評価である。
「私は品格が高い」と本人が大声で呼ばわってもしかたがない(というか、そういうのはふつう「夜郎自大」と言って、「とても品がない」人間に典型的なみぶりである)。
「あの人、品がいいね」というのはよそさまに言って頂くものである。
この本には残念ながら、「よそさま」に「言って頂く」という姿勢が乏しい。
著者は読者として「日本人」(それも「武士道」的エートスを蔵し、和歌を賞味し、自然の美を愛し、「万世一系の皇統」を誇りに思うようなタイプの日本人)を選択的に読者に想定しているように思われる。
おそらく日本に在住している外国人は読者には想定されていない。
英語や中国語に訳されて読まれることも(たぶん)想定されていない。
でも、それって少しおかしくはないだろうか。
日本という国の「国家の品格」について査定を下すのは私たちではなく「彼ら」である。
彼らが読んだときに、この「日本国家の品格を向上させるための啓発的文書」に横溢する自民族中心主義は彼らを「日本国家の品格」にハイスコアをつけるように導くだろうか。
ちょっと無理なような気がする。
私がアメリカ人なら(私はそういう種類の想像ばかりしている人間であるが)たぶんこの本を読んで「けっ」と思うだろう。
この本を読んで日本人読者が「溜飲を下げる」箇所の多くは、外国人が読んだら「むかつく」箇所である。
「溜飲とむかつき」のトレードオフが国際関係論上「有利な」バーゲンであるという判断に私は与しない。
できることなら、外国の方が読んでも「うーん、日本ってけっこういい国みたいだね」と思って頂けるようなものを書いた方が「国家の品格」のためには資するところがあるのではないか・・・というようなことを申し上げる。
ベストセラー相手にこんなことを言うと、せっかく読んで気分がよくなった読者のみなさんが激昂せられて、私はますます世間を狭くすることになるのであるが、仕方がない。
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