アメリカの凋落

2006-03-19 dimanche

WBC(World Baseball Classic)がたいへん興味深い展開になってきた。
もとはと言えば、人気に翳りの出てきたアメリカのメジャーリーグを興行的にてこ入れする「アメリカン・メジャーリーグはこんなに強いぞキャンペーン」として「アメリカが優勝することを勘定に入れて」企画されたものである。
メジャーリーグが勝つように、打てる手はすべて打ち、球審によるホームデシジョンの悪質なものを二つ犯した。
それでも二次リーグ敗退。
まことにアイロニカルな出来事であるが、私はこれを「アメリカの凋落」の決定的な徴候と見る。
国家の凋落というのは、政治的・経済的なパワーの際だった衰えより先に、その国の「スピリチュアルな威信」というか「何となく底知れず懐の深そうな余裕」というようなものが消失するというかたちで徴候化する。
アメリカは依然として世界に冠絶するスーパーパワーであり、その軍事力の前に世界の国は屈服を余儀なくされているけれど、その覇権に「心からの敬意」を抱いている人間はもうほとんどいない。
そして、しだいに「恐怖心」もリアルではなくなってきている。
「アメリカの弱さ」についての認識がいまゆっくりと(だが確実に)全世界的に共有されつつある。
前にも書いたことだけれど、1950-60年代のアメリカン・ポップスの黄金時代に、アメリカの男性ポップシンガーたちは実に良く「泣いた」。
金髪七三分けで、Vネックセーターに、チェックのボタンダウン。コットンパンツにスリップオンを履いて、にこにこ笑顔の男の子が「キミがそんなふうにイジワルすると、ぼく、泣いちゃうよ」とか「キミと一緒に町を歩いていると、みんな振り返るんだぜ、えへん」みたいな歌詞をメロウな声で歌っていた。
それがアメリカが世界最強国へ上り詰めようとテンションがぐいぐい高まっているときのサブカルチャーの表出の仕方であった。
そういうものなのである。
力がみなぎっているとき、人間は「弱さ」や「哀しさ」や「もののあはれ」に精神的なリソースを割くことができる。
男が泣けるのは、「男泣きする余裕がある」ときだけである。
逆に言えば、余裕がなくなったとき、人間は強面になる。
強気で出てくるのは、「負けるかもしれない・・・」という恐怖が、弱い酸のように内部を冒しはじめたときからである。
アメリカはいま「負ける余裕」を失っている。
たかが野球である。
野球くらい、気楽ににこにこプレイすればよろしいではないか。
もとはといえばアメリカがアジアや中南米世界に扶植したボールゲームである。
それがアメリカ以外の土地に根づいて豊かに開花したことを、起源の国として言祝げばよろしいではないか。
それが大人の余裕というものである。
だが、いまのアメリカにはそれができない。
何がなんでも勝たねばと躍起になる・・・というのはすでに「相当負けが込んでいる」人間のメンタリティである(麻雀をやっているとよくわかる)。
ボブ・デービットソンという恥ずべき「誤審」を犯した審判に対してアメリカの世論がどういうリアクションをしたのか私は知らない。
でも、もしこの審判の「愛国的」なふるまいを「フェアネス」という観点からきびしく問い詰めて、「参加国の前にわびるべきだ」という意見がアメリカの世論の中で支配的なものになるということがなければ、たぶんアメリカはもう「終わり」だろう。
超大国ができるだけ長い期間その尊厳を維持したいと望むなら、決して失ってはならないものがある。
「フェアネス」に対する配慮はその第一のものである。
力のあるものが実際にもフェアーであるとは限らない。
力があるものは蔭ではどんなことだってできるし、現にしているだろう。
けれども、それが表に見えてはいけない。
「ほんとうにフェアーである」必要はないが、「フェアーにふるまっているように見える」必要はある。
アメリカはいま国際政治でも貿易でも、そして野球のような「遊び」でさえ、「アンフェア」なことを平気でやるようになった。
「みばえなんて構ってはいられない」ということなのだろう。
「強さ」というのは、ささいなことで涙を流し、うつろいゆくものを惜しみ、おのれのわずかな不作法を恥じることのできる「余裕」のことである。
アメリカはそれを失った。
それはおそらく二度と回復されないだろう。
--------