ぼくはぎれいずき

2006-03-16 jeudi

卒業式。
本学はプロテスタントの大学なので、式はキリスト教の礼拝の形式で行われる。
私は役職上、式の冒頭に聖書を拝読する係を仰せつかっている。マタイによる福音書の22章の34節から40節までを朗々を読み上げるのである。
これはたいへんに気分のよろしいものである。
しかるに私はキリスト教徒ではない。
内田家の菩提寺は宗傳寺というお寺で、父の回忌ではそこで住職のお経に朗々と唱和するが私は曹洞宗の信徒ではない。
先般、湊川神社で正謡会があったときに「どうか詞章を間違えたり、道順を間違えたりしませんように」と神殿に深々と礼をしてから楽屋入りしたが私は神道家ではない。
去年は釈老師と共著で本願寺出版社から浄土真宗の入門書を出したが、私は浄土真宗の門徒ではない。
私の学問上の師はユダヤ教徒であり、私はものの考え方の多くをそのユダヤ教思想に負っているが、私はユダヤ教徒ではない。
私は宗教的な儀礼が大好きなのであるが、特定の宗派に専一的に帰依することがなぜかできない。
ふつう宗教的なひとは、いずれどこかの宗派に帰属するものである。
宗教的でないひとは、法事もお参りも賛美歌も「ま、おつきあい程度なら・・・」という感じでスルーして、私のように気合いを入れて儀礼にかかわることはない。
私はたぶん「儀礼」というものが根っから好きなのであろう。
儀礼というのは「なんだかよく意味のわからないもの」である。
にもかかわらず、「決められたとおりにちゃんとやんなきゃダメ」というものである。
「どうして?」と問い返すと、「・・・だって、むかしからそう決まってるから」という答えになっていない答えしか返ってこない。
私はおそらくこの「答えになっていない」ところを愛するのである。
どうしてこの儀礼がこうでなければならないか、逐一ご説明しよう・・・というふうに合理的に説明されてしまった場合、私の儀礼に対する情熱は一気に冷却してしまうであろう。
「理由がわかってみんながやっていること」と、「どういう理由だかわからないけどみんががやっていること」ではあきらかに後者の方が私の欲望をはげしくかきたてる。
かきたてられるのは知的好奇心ではない。
欲望である。
儀礼が太古的な起源をもつものであればあるほど、太古的な起源が歴史の暗闇に消えているほど遠く、それにもかかわらず「まだ生きている」と知ると、私はわくわくしてくる。
マタイ伝の「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」という一節は飯チャプレンのお話によると、イエスのオリジナルではなく、ユダヤの伝説的な賢者、ラビ・ヒッレルのことばだそうである。
それを聞いた後、私の朗々たる拝読の声はますます朗々としてきたのである。
それは「翁」の「とうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう」という詞章を謡うときの方が「これは朱雀院に仕え奉る臣下なり」という詞章のときよりも、ぐっと気合いが入るというのと同じ事情である。
制度の「根源」に触れたい、というのが私の抑えることの出来ない欲望である。
人間がどこからどういうふうにしていまのような「人間」になったのか。
それを知る手がかりはその起源が知られぬままにいまにいたるまで実修される儀礼のうちにしかない。
私が「君が代」をあまり朗々と歌う気になれないのは、その儀礼についての「合理的説明」があまりに煩いからである。
東京都教育委員会が「どうして卒業式には日の丸を掲揚し、君が代を歌わなければいけないのか、ほんとういうと理由がよくわかんないんです・・・」と正直に言ってくれたら、私は彼らにほおずりするであろう。

卒業式の茶話会で、三教のポーズを決める。合気道部の卒業生はナオちゃんとシマヅさんのおふたり
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