詩人と批評家

2006-03-13 lundi

どういう理由か知らないが、私のテクストは入試問題によく使われる。
2005年度は代ゼミ集計による「入試によく出題された人」ランキングに初登場10位というデビューを飾ったこともある。
2006年度はどうなっているのか知らないけれど、各種学校予備校出版社からの「著作物使用のお知らせ」と「お願い」がたくさん届いているので、あるいはベスト5くらいをねらえる位置につけたのかも知れない。
今年は都立日比谷高校の入試に使って頂いた。
母校の入試問題に自分の文章が使われるというのはなんだか面映ゆいものである。
1966年に私はその学校の一年生だった。
もしタイムマシンで40年後の私が現れて、「これこれ、そこの少年。部室の前でコーラキャンデーなめてるキミだよ。キミの書いた文章があと40年後にここの入試に出るよ」と予言したらどう反応したであろうか。
おそらく16歳の私はただちにその予言を信じたであろう。
なにしろ私はその頃すでにノートに「まだ入ってない大学」の卒業年次を書き込んだ履歴書と「まだ書いてない著作リスト」と「著者近影」のマンガを掲げた「著者プロフィール」なんか書いていたのであるから(ちなみに高校一年生の私は東大独文を卒業して文学研究者になることを予定していた。もちろん柴田翔の影響。その後いろいろ曲折があったが、40年経つと実際に高校一年生のときに書いた空想の履歴書とあまり違わない展開になっているのが当たり前といえば当たり前、不思議といえば不思議である)
閑話休題。
入試問題もあわせて送ってくれるので読んでみるのだが、なかなかむずかしくて本人にも回答できない。
自分で書いた文章を自分で回答できないような問題を作って・・・ということを書いて、入試問題がいかに愚劣であるかという結論に導く人が時々いるけれど、これは大層な考え違いである。
書いたときの私と読んでいる私が「別人」であるのだから、何が書いてあるのかよくわからなくなって当然なのである。
というか、何年も前に書いた文章を読み返して、一語一句の意味がすらすらわかるようでは、その何年間のあいだに夫子ご自身に何の人間的変化もなかったことになるではないか。
むしろそのことを恥じるべきであろう。
だから、私は作家の自作自注をあまり信用しない(他の批評家や研究者の解釈と同じ程度にしか信用しない)。
自分の作品が何を意味するのかすらすら言えるくらいならわざわざ作品を作って迂回する必要はないからである。
言いたいことが手短に言えるなら言えばよい。
言えないから作家だって作品を書いたのである。
故・竹信悦夫の文学的才能について語った中で、高橋源一郎さんはこう言っている。

「そこがね、詩人と批評家の違いなんだよ。
-詩人は平気なの?
詩人はね、現実はこんなもんだって感じはある。竹信君はそういう点ではある意味未成熟でしたよ。
-夢見る人だね。
これが不思議でね。詩人と批評家、どちらが夢見るかと言ったら批評家の方なんですよ。
-へえ〜
詩人はね、なまものの言葉を扱っているんで。言葉ってさ、今日築地から届きました〜とかって、要するにすごくいい加減だったりするわけです。理想と違うわけ、極端なこと言うと。でも、理想と違うからそんな言葉は使わないっていうんじゃ、詩人になれない。詩人というのは、そこにある今日届いた魚で料理しなければならないと思うんです。とりあえず手元にある材料で料理するのが詩人。こんなしょぼいので作れるわけないじゃないか、と怒るのが評論家。
-浅草の寿司屋だね。
だから詩人の方が、理想とか考えているんですよ、頭では。でも、手は勝手に魚をおろしちゃう。(笑)竹信はそういう意味では批評家的。『こんな魚捨てろよ』というのに対して、『もったいない』って本能的におろせる。目の前にある最低の材料でも思わず作っちゃうのが詩人。」(竹信悦夫、『ワンコイン悦楽堂』、情報センター出版局、2005年、409-410頁)

「高みから一刀両断する評論家」である竹信くんと十代の多感な日々を過ごしたことで高橋さんは作家になったというお話である。
ちなみに「へえ〜」とか「浅草の寿司屋」とか無意味な相槌を打っているのは、ワインで泥酔しちゃった私である。
この高橋さんの詩人/批評家論における「詩人」を「作家」に置き換えると、昨日書いた村上春樹/安原顯のかかわりの構造的な問題が少し見えてくるかも知れない。
村上春樹の初期の三部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』を読み比べると、最初の二作が「目の前にある材料」で作られた作品であり、三作目が「目の前にない材料」で作られたものであることがわかる。
「目の前にない材料」で作品を作り出すためには、「手が勝手に魚をおろす」だけの技術が身体化していなければならない。
ジュリアン・ジェインズ的に言えば、毎日毎日あらゆる種類材質の魚をおろしているうちに、「右脳」で魚をさばくようになってくる。
おしゃべりをしたり、音楽を聴いたりしながらも、手元も見ないで、魚をさくさくさばけるようになる。
そんなことを続けているうちにある日「そこに存在しない魚」を手が勝手におろしてしまうという「奇跡」が起こるのである。
村上春樹の創作技術を下支えしているのは「ピーターキャット」のカウンターで、客のおしゃべりの相手をしながら、レコードをかけかえ、酒を作り、料理を作り、レジを叩いていたときの経験だろうと私は思っている。
たぶんそのときに村上春樹は「手が勝手に魚をおろす」こつを身にしみこませたのである。
サラリーマンであり批評家であった安原顯がたぶんついに理解できなかったのは、この「身体化された創作技術」というものの価値だろう。
彼の目には村上春樹の作品が「技術が作り出した商品」に見えた。
村上春樹を批判する批評家の多くがその点では同じような言葉づかいをする。
「テクニックだけで書いている」
当たり前である。
作家なんだから。
まず技術があり、材料は「ありあわせ」である。
自分で注文するわけではなく、「あっちから来る」材料をかたはしからさばくのである。
だからこそ、誰も見たことのない、想像を絶した料理が出来ることもある。
まず文学理論があって、それから小説を書き出すとどんなものができあがるか知りたい人はモーリス・ブランショの小説を読めばよい(私が想像できる地獄の一つは無人島にモーリス・ブランショの小説とともに置き去りにされることであり、私が想像できる極楽の一つは無人島にモーリス・ブランショの評論とともに置き去りにされることである)。
誤解されたくないので、もう一度言うけれど、詩人と批評家はもともと別の人種である。
それぞれに託されている使命が違うのである。
高橋さんとの対談の終わりの方で私はこんなことを言っている。

「あの、何て言うのかな。築地の寿司屋で仕入れる魚の質が毎日変わるような時にさ、不動の価値基準っていうものを持っていて、『こんなもの食えない』って席を立つ頑固な客がいないと寿司屋自身も立ちゆかなくなっちゃうじゃない。椅子を蹴飛ばして帰ってゆく客がいてはじめてその浅草の路地裏の寿司屋も成り立つわけで。そういう批評家の恩というのは竹信に負っているような気がするなあ。」(411頁)

酔っぱらいにしてはなかなかまともなことを言っている(築地と浅草を同一の場所だと錯覚しているのが泥酔の兆候だが)。
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