寒気のする月曜日

2006-02-28 mardi

あまりに用事が多いので、いったい何から手をつけてよいのかわからない。
昼から大学でコンサル会社のヒアリング。
西宮の10大学コンソーシアム(そういうものがあるんです)の将来像について。
どうしていいかわからないときには「とりあえずコンサル会社に投げる」というのが最近の常識らしい。
利害のかかわらない第三者から外部評価を受けるというのはよいことではあるけれど、当事者意識の希薄なコンサルタントから「正しいけれど実現しようもないこと」をご提案されてもどうにもならない。
どこの大学でも忙しい人間の仕事量は十年前の倍くらいに増えている。
「忙しい人間」というのは、別に本人が望んでそうなっているわけではなく、「誰かがやらなければならない仕事なら、私がやりましょうか・・・」という考え方をする人がそうなってしまうのである。
平時はこういう人が全体の10%くらいいれば組織はそこそこ機能する。
けれども、いまのような非常時に、新しいプロジェクトやエクストラの仕事をつねに「いちばん忙しい人間」に選択的にやらせていると、どこかでフィジカルな破綻が生じることになる。
大学外の仕事に割くだけの人的リソースは本学にはない。
「『地域のために一つ汗かいてくれ』というようなオッファーをにこやかに受け付ける体力はもうどの大学にも残されていません。もしコンソーシアムに意味があるとすれば、それはそれぞれの大学がかかえている負担を『軽減する』方向で機能する場合だけでしょう」とお答えする。

そのあと会議。
月曜日には胃の痛む会議があり、私は毎週これに出るのが苦痛である。
今回もずっと黙って目をつぶって時間が過ぎるのを耐えていたが、最後に限界に達する。
組織においては「正論を述べること」や「手続きが正しいこと」よりも「合意に達する」ことの方が重要である。
「論理の整合性」や「手続きの正しさ」が重く見られるは、そのようなものに支えられて論を立てる方がそうでない場合よりも合意に達しやすいからである。
正論を述べ、手続きの正しさに固執することが合意形成を阻む場合は、合意形成の方を優先させる。
それが組織原理の基本である。
主張が食い違うときに一方が100%正しく、他方が100%間違っているということはありえない。
異論が出されるという事実自体がすでに「100%正しい選択」がなされなかったことの証左である。
だとすれば、そのあとの仕事は「51%の正しさ」と「49%の正しさ」では2%だけ前者の方が正しい(それはもう「正しさ」とはいえない)という計量的な吟味にリソースを注ぐことになる。
「計量的ネゴシエーション」の判定基準は費用対効果である。
だから、「ネゴシエーション」のためのコストが、それによって得られる効果を超える場合は、ネゴシエーションそのものを中途で放棄して、誰かに裁定を一任するというオプションもしばしば採択される。
何度も使う比喩で申し訳ないが、「100万円の使い道について議論して、合意形成になかなか至らないうちに弁当代で100万円使ってしまった」というのがもっともばかばかしいリソースの蕩尽の仕方なのである。

日刊ゲンダイの記者と面談。
新聞への電話コメントはいただけるかというお尋ねなので、「いやです」とことわる。
定期的に時評を書いてもらえますかというお申し出にも「もう連載はしません」とお答えする。
どうにも横着な対応であるが、物理的にもうこれ以上仕事を増やせないのだから仕方がない。
それはさておきメディアの現状とあれこれの裏話に話頭が転じ、「あれって、実はどうなんですか」「あれはですね・・・」「ええ! やっぱり」というような話(もちろんこんなところでは公開できない)をいろいろお聞きする。
やはり現役のジャーナリストはとんでもないことを見聞きしているものである。
小泉純一郎という人は「文体だけがあってコンテンツがない」ということで意見の一致を見る。実際もそういう人らしい。

離しているうちに寒気がしてきた。
どうやら風邪の引き始めらしい。
杖道の稽古と能楽の稽古をお休みして家に帰って葛根湯を飲んで寝る。
『映画秘宝』の「エクソシスト」特集(なんで今頃?)の中に言及があって、おもしろそうだったのでアマゾンで取り寄せた『神々の沈黙』(ジュリアン・ジェインズ)を読み始める。
こ、これは面白い。
面白いというか、私がこの一年ほど考えていたテーマとまるっと重なっている。
世界は広く、ちゃんと「こういうこと」だけを集中的に研究していた人はいるのである。
読み出してほとんど全部の頁に赤線を引いているのであるが、ポランニーが「暗黙知」と術語化した「知っているけれど、『知ってること』を知らない」知というものが存在する。
ジェインズによれば、私たちが学習していることのほとんどは無意識のうちに行われる。
ある心理学の教室で教師が「無意識と学習」について教えた。
学生たちはその学習の成果をさっそく教師自身に応用することを思いついた。
教師が教室に入ってきて講義を始めたときに、教師が教壇の右半分に来たときにだけ全員が目をきらきらさせて深くうなずき、冗談にどっと笑ってみせたのである。
もちろん教師はそれと気づかないうちに、教壇の右半分に好んで足を向けるようになった。
教師は学生に「訓練」されたのである。
インターラクティヴな授業というのは、別に教師と学生が同じ持ち時間だけ発言するということではない。
無言であっても、うなずきや目の輝きや笑いによって、自在に発話者を「操る」ことができる。
経験を積んだ教師は、無言のわずかなリアクションだけで学生を高揚させたり、意気消沈させたりすることができる。
そして、このとき「訓練」された側の人間は自分が「訓練された」ということを知らないのである。
学びの本質は「自学自習」であるというのはこのことである。
人は自分が学んでいることを知らないときにいちばん多くを学んでいる。
そして、私たちがそのような自学自習のプロセスに踏み込むきっかけとなるのは、私たちがそれを「シグナル」だと感知しさえしなかったものの効果なのである(ジェインズはこのシグナルを「教示」intsruction と「構築」construction の両義を込めて「ストラクション」と名づけている)。
『神々の沈黙』はたいへん私向きの本のようなので、読んでいる途中で面白そうな箇所があったら、そのつどご報告したい。
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