東京へ。
『文藝』の特集号のために、高橋源一郎さんにロング・インタビューのお仕事。
お会いするのは『ワンコイン悦楽堂』の巻末対談のために芦屋の我が家にお越しいただいて以来であるから、半年ぶりくらい。
お会いするなり「ゲラどうなってますか!」と責め立てようと肚を決めて渋谷に行く。
そりゃそうでしょう。
「読んでなくても大丈夫・高橋源一郎の明治文学史講義 in 神戸女学院」の初校ゲラをお渡ししたのが、去年(!)の1月である。
年度内には何とか・・・という言葉を信じた私が甘かったといわれればそれまである。
春先にお会いしたときに、「そろそろいただけませんか・・・」と申し上げると、「来月には必ず」
初夏にお会いしたときに、「あの・・・来月はだいぶ前に過ぎてしまったのですが・・・」と申し上げると「来週には必ず」とにっこり微笑まれたので、私もそれ以上の深追いは自粛したのである。
それから半年余。
ついにゲラを渡して1年を越した。
「ゲラどうなってます!!」という声のイラツキ度が高まるのも当然であろう。
しかし、さすが高橋さんである。
会った瞬間に私が言葉を発するより先に、「週末まで待って!」と機先を制されてしまった。
「ほんとは今日持ってくるつもりだったの。ウチダさんが『ゲラは・・・』と言ったときに、かばんからさっと取り出して、『さ、どうぞ』と渡すつもりだったんですよ。でも、昨夜息子が熱を出して・・・・(以下長い言い訳)」
みごとなものである。
「もう二年も寝かしているゲラだってあるんですから」と言われると、そうか私よりもっと悲惨な目にあっている編集者もいるのだと救われた気になり、
「ウッチーのところの仕事いま最優先でやってますから」と言われると、ああなんていい人なんだ・・・と温かい気持ちがこみ上げてくる。
そうやってこれまで無数の編集者が高橋さんに翻弄されてきたのである。
恐るべし。高橋源一郎。
渋谷の駅ビルで何枚か写真を撮ってからインタビュー(写真を撮るというならもうすこしまともな服で来たのだが、家で仕事をしていたままの格好で来たので、リーヴァイスのぼろジーンズにユニクロの安セーター姿を撮られてしまった)
インタビューのテーマは「政治と文学」
ご令嬢、橋本麻里さんも加わって(麻里さんと高橋さんは『文藝』で「親子対談」をされているのである)5時過ぎから11時まで、途中で河岸を変えて延々と話し続けた。
インタビュアーがあまりしゃべってはいけないので、最初は質問だけして「ほうほう」とうなずいていたのだが、高橋さんの話が面白すぎて、「1970年のビッグ・ウェンズデー」というあたりからつい興奮して、結局いつもと同じようなマシンガ乱れ撃ちトークになってしまった。
1967年から68年にかけての「時代の空気」はそのときに何歳であったかによって違う。
これは私自身の経験的確信だったが、それを高橋さんの口からはっきり確認してもらった。
私たちは1968年の春に17歳だった。
そのとき高橋さんは生まれて初めての激烈な政治論文を灘校の『鬼火』に寄稿した(それは今度の『文藝』に採録されることになっている)。
私もほぼ同時期に「大航海時代が今始まろうとしている」と題した同じく過激な政治論文を日比谷高校の『星陵』に寄稿した。
それを書いた後に、高橋さんは高校での政治闘争を組織し、私は高校をドロップアウトした。
私たちはたぶん二人とも想像上の「海岸」に走り出て、「伝説の大波」が来るのを待ち焦がれていたのである。
この「大波が来る」という黙示録的予感に駆り立てられた「軽挙妄動」は私たちの年代に固有のものである。
この予感は何も知らない子どもには感知できないし、ある程度世の中のことがわかってしまった大人にも感知できない。
そのときに、大人と子どもの中間の不安定な時期にいた少年たちだけが感知したものである。
この「伝説の大波の予感」を激しいリアリティで生きたことをはっきりと感じることができる作家は高橋さんと矢作俊彦さんだけである。
少し前に橋本さんは養老孟司先生との対談で、68年入学と70年入学では新入生の顔つきがまったく違っていたと語っていた(さすが、橋本先生は炯眼の人である)。
「1970 年に東大に入ってきた連中はそれまで大学では見たこともないような『子どもの顔』をしていた」と橋本さんは証言している。
その通りなのである。
あれは「1970 年の伝説の大波」がもう来ないことを知りながら「海岸」にやってきて、それが「来ない」ことを確認するためだけに沖を見つめていた子どもたちの顔だったのだ。
そのことが36年経って高橋さんと話していてやっとわかった。
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(2006-02-17 17:20)