以前にも書いたことだが、原則的なことなのでもう一度書いておきたい。
他人が書いたことをどう解釈するかは100%読み手の自由に属する。
私自身、自分が書いてものをしばらく時間をおいて読んだときに、いったい何が言いたくて「こんなこと」を書いたのかよくわかないということがよくある。
しかたがないので、その場合は自分の書いたものを「たぶんこういうようなことが言いたかったのであろう」と言葉を補って、自分で解釈する。
そのときに「書いたときの内田樹」がタイムマシンで登場して、「そうじゃないよ、私が言いたかったのはね・・・」と異論を立てられてもこちらとしてはおいそれとは肯うわけにゆかない。
「キミはそう言うけど、現にこういうふうにも読めるじゃないか」と私は「過去の私」に断然抗議するであろう。
「私がその言葉を書いた」ということと「私がその言葉のもっとも正しい解釈を知っている」というのはまるで別のことである。
だから、私は作家の「自作自注」というのを特別には信用しない。
「あの作品はどうして書いたんですか?」という質問に、「あれはね・・・」と言い出す作家の言葉に他の批評家以上の信頼性を求めても益の無いことである。
作家自身だって、自分が書いたものを「あとから」読んで解釈している限りは、ひとりの批評家にすぎないのである。
言葉の力は作者の統御を超える。
テクストはしばしば作者自身よりもはるかに豊かであり、奥行きがある。それはテクストが作者自身の豊かさや奥行きを文字に「翻訳」してできあがるものではないからである。
だから、「そんなつもりで言ったんです」という説明も、「そんなつもりで言ったんではありません」という言い訳もあまり意味がない。
「どういうつもりで言ったのか」を決定できる人間は(言った本人を含めて)どこにも存在しないからである。
だから、ひとの言葉はどのように解釈しても、それは解釈する者の自由である。
以上は原理である。
以下に述べるのは常識である。
そうはいっても、あらゆる解釈は等権利的に拝聴されねばならないというものでもない。
「なるほど」と膝を打つ解釈もあるし、「そうかねー」とあくびをかみ殺す解釈もある。
今から30年ほど前、私がある大学の仏文科にいたころ、ひとりの院生が修士論文で奇妙なロジックを展開したことがあった。
「***はその全著作を通じてXXXに一度も言及していない。***ほどの強記博覧の学者がXXXのことを知らないということはありえない。にもかかわらず言及がないのは、実は***の全著作はXXXについての迂回的な注釈だったからである。」
この推論は形式的には間違っていない。
抑圧された主題は、その主題のまわりをぐるぐる周回するような言説を生み出すというのは分析的にはよくあることである。
よくあることではあるが、「それでは」というので、このロジックをどんどん拡大適用すると、ある人が何かに言及しても言及しなくても、「それについて語っている」という解釈が成り立つ。
原理的にはそうとも言えるが、常識的にはいかがなものかと思う。
原理的にはそうとも言えるが、常識的にはいかがなものか、という評言はありうる。
私たちはいろいろなことを述べる。
そのときに、「私の言い分は正しい」ということをある程度定着させ、物質化するためには「私は正しい」と主張するだけでは足りない。
「この人の言い分はまあ常識的だわな」という外部評価が必要となる。
そういう言葉だけがある程度の範囲で聞き届けられ、ある程度の物質性を獲得する。
しかし、「常識的」とはどういうことかについては外形的な標準は存在しない。
「原理としての常識」とか「汎通的常識」とかいうものは(「詩的常識」や「狂信的常識」と同様に)存在しない。
だから誰であれ、「私の言うことこそが常識だ」と主張する権利はない。
だって、そんなことを言い募るのはまことに「非常識」なふるまいだからである。
自分の言い分が常識的であるかどうかを、語る当の人間は決定することができない。
ここがたいせつな点だ。
「常識」は、「そんなの常識である」という文型ではなく、「そんなの常識ですよね?」という疑問文を経由してしか、つまり他者の「とりなし」を経由することなしには、生き延びることができないものだからである。
そこに常識の手柄はある。
--------
(2006-02-14 17:03)