言葉の力

2006-02-13 lundi

「ゆとり」から「言葉の力」へ。
10年ぶりに全面改訂される次期学習指導要領で、学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることになった。
中教審で原案を示される「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤として位置づけられている。
現行指導要領の基本理念だった「ゆとり教育」は廃されて、「言葉の力」がこれに代わることになる。
2004年の国際学力調査の結果、日本の子どもの学力「二極化」が進行していることがわかり、読解力や記述式問題に学力の低下傾向が顕著であり、「学習や職業に対して無気力な子ども」が増えていることも指摘された。
この傾向を補正するために、次期指導要領では、言葉や体験などの学習や生活の基盤づくりを重視する「言葉の力」をすべての教育活動の基本に置くことになった。
具体的には、古典の音読・暗記や要約力の促進、数量的なデータを解釈してグラフ化したり、仮説を立てて実験・評価したりする力、感性を高めて思考・判断し表現する力など、国語力の育成と関連づけた論理的思考力や表現力の重要性を強調している。
文科省がようやく「当たり前」のことに気づいたようである。
これに気づくのに信じられないほどの時間がかかるというところに中央省庁の絶望的な非効率性は存するが、それでもお上が「まともな結論」にたどりついたことを一国民として多としたい。
文科省と平仄を合わせるように朝日新聞は先日から奇妙なコピーを掲げている。

「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」

新大阪の駅でこのポスターを一瞥したとき、私は肌に粟を生じた。
できれば、こういうことを言う人間には言葉について語って欲しくない。
小田嶋隆先生は、このコピーについてたいへん厳しい指摘をされている。
「言葉のチカラ」というワーディングをよしとする言語感覚の貧しさについて、私が小田嶋先生に付け加える言葉はない。
しかし、私はそれ以上にこのような言語論(朝日は自覚していないだろうが、これは言語についてのひとつの党派的イデオロギーの宣言である)を掲げる朝日新聞にひとことの異議を申し立てておきたい。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ」というフレーズには「言葉は道具だ」という言語観が不可疑の真理として伏流している。
言葉は道具である。
だから、語り手は「感情」を言葉で吐露することができるし、言葉を凶器として用いて人を傷つけることもできる。
しかし、所詮は言葉にすぎないから、現実を変成する力はそれほどはない。
これは言葉を使う人間としての「自戒」の言に似て、「言語運用主体の無反省」をはしなくも露呈しているように私には思われる。
朝日的言語イデオロギーによれば、まず言語運用の主体がいる。
言語以前にすでに言語運用の主体が権利上存在するのである。
その主体には、言語以前にすでに感情があり、他者への害意があり、権力意志がある。
言語は、その主体の「すでに内在する感情」や「他者への害意」を現勢化するヴィークルにすぎない。
そして、言語の価値はそれが「無力」であるか「有力」であるか、現実変成の結果によって計量される(「ときに無力」であるという限定は、「ときに有力」である場合にしか使われない)。
有力であるのは(馬力の大きな自動車と同じように)「よい言葉」であり、無力な言葉は「悪い言葉」である。
わずか一行のうちにこれほど政治的な言語観を詰め込むのは、たいした「チカラ技」であるという他ない。
私はここに語られている言語観に同意することができない。
私が数日前に書いた「まず日本語を」という文章で申し上げたかったことは、どうやって言葉を効率的にかつ審美的にみごとに使いこなすかというようなことではない。
そうではなくて、「効率」とか「美」とかはたまた「批評性」とか「イデオロギー」というような世界分節そのものが言語によってもたらされたものであるという出発点を確認しただけのことである。
そこに書いたいちばんたいせつなことをもう一度繰り返す。

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」

「言語の力」とは、「自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られる」事況そのものを指している。
言語運用の主体性は、まさに彼が今言語を運用しているという当の事実によって基礎づけられるのである。
ラカンによれば、私たちが語るとき私たちの中で語っているのは他者の言葉であり、私が他者の言葉を読んでいると思っているとき、私たちは自分で自分宛に書いた手紙を逆向きに読んでいるにすぎない。

「『文は人である。』私たちはこの俚諺に同意する。こう付け加えるという条件なら。『文は(宛先の)人である。』(…) 言語運用において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たちに到来する。ただし、順逆の狂った仕方で (sous une forme inversée)」(Jacques Lacan, Écrits I, Seuil, 1966, p.15)

朝日新聞のコピーライターが『エクリ』を読んでいないことを私は責めているわけではない(その邦訳は「ある種の絶望が具体的なかたちをとったもの」であるから「読めた」人がいることの方が奇跡である)。
しかし、ラカンが書いていることはすこしでも集中的に言葉を書き連ねた経験のあるものなら直感的に知っていてよいことである。
「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なのだ。」
「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことである。
早熟の書き手なら十代でそれを経験する。
「言葉の力」には言葉に対する畏怖と欲望、不安と信頼とがないまぜになっている。
言葉を単なる主体の思考や美的感懐の表現手段だと考えている人々は「言葉の力」についに無縁な人々である。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ」というようなことを言える人間は、彼のイデオロギーやドクサや民族誌的偏見がその当の言語によってあからさまに表現されているという事実に気づいていない。
言語は私たちを幽閉している檻である。
当然ながら、自分が檻に幽閉されていることを知らない人間は、決して檻から出ることができない。
彼の目には鉄格子が「世界の終わり」であり、鉄格子の手前までが全世界だからである。
彼はその世界では100%の自由を満喫することができる。
自分を「言語の主人」であると思い込むことによって人は「言語の虜囚」となる。
あるいは「言語の虜囚」になることを代価として「言語の主人」であるという夢を買うことができる。
バートランド・ラッセルはウィトゲンシュタインの『論理哲学論』の序文にこう書いた。

「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。(…) 世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。」(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論』、山元一郎訳、中央公論世界の名著58,1971年、319-20頁)

朝日新聞のコピーライターがウィトゲンシュタインを読んでいないことをも、もちろん私は責めているわけではない。
しかし、思考するとはどういうことか、それを言葉で表現するとはどういうことかについて、少しでも深く考えたことのある人間なら、自分の言葉が自分の世界の境界であるということについての痛覚や病識はあってよいはずである。
私が「まず日本語を」ということでいいたかったのは、「日本語話者として私たちは自由に日本語を運用できており、それを用いて自由に感情を吐露したり、人を傷つけたりできているし、ときどき現実をすこしだけ変革することもできている」という道具的・カタログ的言語観(「ソシュール以前的」という意味では100年古く、「マルクス以前的」という意味では150年古い)と決別すべき時が来ているのではないか、ということであった。
「言葉の力を恐れる」というのはそのときに私たちが取るべき立ち位置である。
それは朝日新聞がいうような「言葉のチカラを信じる」構えの対極にある。
中教審の「言葉の力」路線も、それが学力や知力といった文化資本を獲得するために言語を功利的に活用すること以上のものではないのなら、朝日新聞と言語観の貧しさにおいて選ぶところはないが。
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