プライバシーって何でしょう?

2006-02-08 mercredi

大学に1年生の子が遊びに来た(というか、わりとややこしい相談ごとであったのだが、私はだいたいどういう相談ごとを受ける場合も「遊びに来た」というカテゴリーに入れてしまうのである)。
そのとき、ブログに自分のプライバシーを書くことのむずかしさに話題が及んだ。
どういうふうに「プライベート」と「パブリック」を区別したらよいのでしょうという質問を少し前にある女性誌の取材のときにも受けたことがある。
それについて以下に卑見を述べる。

私はむかしから「壁新聞」とか「同人誌」とか「うちわの回覧板」のようなものをつくるのが大好きだった。
インターネットがないころは(ほんの10年ほど前のことである)、自分で手書きの「回覧板」をつくって、それをコピーして友人たちに送りつけていた。
身辺雑記を書いたり、ともだちの近況を書いたり、映画評やら文芸時評やらを書き殴っていた(椎名誠さんの『幕張ジャーナル』とだいたい同じつくりである)。
同じことがネットでできるというので、こりゃ便利だと、手書きコピー&郵送というパターンを、htmlに置き換えた。
だから本質的には私がやっているのは「サイバー壁新聞」であり、そこから一歩も出ていない。
私の壁新聞は署名入りである。
無署名の壁新聞を書いているひともいる。
でも、私は固有名で発信する。
その違いは奈辺にあるのか。
匿名で発信することの最大のメリットは、かなり危ないことを書いても責任を問われないということである。
六条河原の落首と同じで、誰でもがそういう「危ないこと」を書く権利は保証されているというのは世論形成上たいへん健全なことである。
ただし、落首と同じく、その場合は、「危ないこと」を書いて掲示したら、即トンズラして、「足がつかない」という保安上の配慮をしなければならない。
匿名のよいところは「足がつかない」ということであり、匿名の欠点は「足がつきそうなことは書けない」ことである。
(その中間にもうひとつ「半匿名」という書式もある。これは「仲間内では誰のことだかわかっているけれど、メンバー以外はわからない」というありようのことである。これがいちばん「ブログ的においしい」かたちだろう)。
匿名の筆者は彼が誰であるかを特定できそうな情報をブログに書くことができない。
「今日、祇園祭りに行った」とか「渋谷で東幹久を見た」くらいのことでは足はつかないけれど、「うちの社長は今日の役員会でこんなバカなことを言った」とか「秋の園遊会で安倍晋三の足を踏んた」とか「昨日シャラポワと浅草で天ぷら食べた」とかいうようなことは書けない。
でも、ともだちに「ねえねえ聞いてよ」と言いたいことって、概して「そういうこと」である。
そういう「ねえねえ」系の話を公開することを断念しないと匿名で日記が書けない。
これはかなり本人としては切ないことである。
匿名での発信は固有名での発信より自由度が高いと思っている人が多いが、「書き手を特定される可能性のあることは書けない」という条件を課した場合、むしろ匿名の書き手は「書きたいことが書けない」ことの方が多いのではないかと私は思っている。
それ以上に、匿名発信の最大のネックは、その匿名の筆者がどれほど理路整然と政治的に正しい意見を述べたとしても、「この人はこの発言に責任を取る気があるのか」という点で、つねに留保がなされるということである。
私たちは他人の意見をその論理的整合性や政治的正しさよりもしばしばその意見にどれだけ身体を張っているかを基準にして格付けしている。
どれほど「正しい意見」を毎日発信しても、話題が「決して身元がばれない」ものに限定され、そこで開陳される意見の実行を担保する身体が不可視である限り、その現実変成力にはおのずと限界がある。
もちろん、「だから全員固有名で書け」というような原理主義的なことは申し上げない。
私とて書いていないことはたくさんある(私が青筋を立てて腹を立てた出来事や私が涙を流すほど感動した事件のほとんどはブログ上では公開されていない)。
でも、それはそれを書くと、私の本性がばれるから秘匿しているのではなく、私が書くことで、書かれた人の身に私にはコントロールできない「さしさわり」が生じる可能性があるから書かないのである。
その抑制は、ブログだろうが、廊下の立ち話だろうが、居酒屋談義であろうと変わらない。
いずれ胸にしまっておいて誰にも言わない話だから同じことなのである。
プライバシーということを「私的な秘密」というふうに考えている人がいるけれど、「100%私的な秘密」というのは原理的に言って、それが何を意味するのかについて了解を共有する相手がいない話のことである。
言いたいけれど言わないのではなく、言っても誰にも(自分自身にも)うまく理解できないことだから、そのうち言える日がくるまで言わないでおかれることが語の本義における「プライバシー」である。
私はそう考えている。
自分の性的嗜癖とかトラウマとか邪悪な内面とかはいくらでも共有できる(少なくとも「わかってくれよ」と自分に向かって言えば、私は理解できる)。
自分に対して「わかってほしいこと」は、だいたいここに書いている。
「公開されないこと」はそういうものではない。
その情報を共有する人(たち)がいるのだが、その人(たち)との(なつかしの吉本隆明文体)「共同署名人」という形式でしかそれについて語ることができないという制約が課されているので気楽に私の文責では語れないことが非公開になる。
この非公開の出来事は私ともうひとりの二人だけがかかわっているものであることもあるし、私のほかに100人ほどの人がそれにコミットしている事件の場合もある。
いずれの場合も「共同署名人」の同意がない限り、私の独断では公開できないことなので、黙っているのである。
でも、秘匿しているせいで苛つくということはぜんぜんない。
だって、その「共同署名人」たちとは会うたびにその話をして盛り上がっているわけなんだから。
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