原理主義と機能主義

2006-02-07 mardi

デンマークの新聞が掲載したマホメットのカリカチュアに対するイスラム圏からの抗議に対して、欧州の各メディアが「表現の自由」という立場から次々に転載したことから、欧州から中東まで騒然となってきた。
レバノンではデンマーク大使館、領事館が相次いで焼かれ、ノルウェー大使館も被害にあった。
シリアでは15000人のデモ隊が棍棒やハンマーを手にして威嚇的なデモを行っている。イスラムの宗教的指導者たちは鎮静を呼びかけているが効果がない。
隣のレバノン政府は宗教対立の激化を憂慮しているが、すでにベイルートではカトリック教会が襲撃にあった。
イラクでは政府がデンマークとのすべての契約を破棄すると宣言、反米ゲリラの〈イスラム軍団〉は「デンマーク人を見つけ次第捕獲し、手足をばらばらにせよ」という指令を発した。
エジプトでもデンマーク、ノルウェーとの国交断絶を求める3000人のデモがあった。
フランスでは『フランス・ソワール』紙がこの戯画を転載したために、爆弾テロの予告を受け、一時全社が退避するという騒ぎになった。
戯画がどういう絵柄か知らないけれど、マホメットをテロリストのように描いたものらしい。これが「イスラム教徒はテロリストだ」という先入観を植え付ける悪質なデマゴギーであると怒ったイスラム教徒たちがデモを行い、大使館に火を点けたり、「デンマーク人をさらって殺せ」と呼号している。
なるほど。
「あなたは怒りっぽい人ですね」と言われた人が「ふざけるな。不当な評言をするな。取り消せ」と怒り出した場合にはどういうふうに応接するのがよろしいのか。
「怒りっぽい」とわかっている相手をわざわざ怒らせるというのは賢いことではない。同じように、「あなたは怒りっぽい人ですね」と言われて怒り出すのはその「不当な評言」が正鵠を射たものであることをすすんで認めることに他ならないから、やはり賢いことではない。
こういうのは怒らせる方も、人を怒らせようと思って仕掛けられたことで怒り出す方もあまり賢いとは言われない。
こういうことを書くと、「ふざけたことを言うな。ことは賢い賢くないかではなく、正しいか正しくないかだ」と力む人が必ずいる。
こういう方たちのことを原理主義者と呼ぶ。
その点、イギリス人はクールだ。
昨日も養老先生から「イギリス人は機能主義だ」という話を伺ったばかりだが、大陸の欧州諸国が「言論の自由」「表現の自由」という大義名分を掲げて、相次いでマホメットの戯画を掲載したのに対して、英国の新聞はこれを自粛し、英国のイスラム系団体もイスラム教徒に自制を求め、騒乱を回避した。
英国人は「言論の自由」を少しだけ制限することで、当面のガバナンスを確保したのである。
こういうところが英国風である。
高橋源一郎さんは前にこのような英国風機能主義を「批評家と詩人」という対比を語ったことがある。

「詩人はね、なまものの言葉を扱っているんで、言葉ってさ、今日築地から届きましたーとかって、要するにすごくいい加減だったりするわけです。理想と違うわけ、極端なことを言うと。でも、理想と違うからそんな言葉は使わないっていうんじゃ、詩人になれない。詩人というのは、そこにある、今日届いた魚で料理しなければならないと思うんです。とりあえず手元にある材料で料理するのが詩人。こんなしょぼいので作れるわけないじゃないか、と怒るのが批評家。(…) 理想とか考えているんですよ、頭では。でも、手は勝手に魚をおろしちゃう。」(竹信悦夫、『ワンコイン悦楽堂』、2005年、情報センター出版局、410頁)

レヴィ=ストロースは「詩人」と言わずに「ブリコルール」と言った。

「ブリコルールはさまざまな仕事をする能力がある。しかし、彼がエンジニアと違うのは、自分の計画のための材料や道具をまず考え、それが揃ってから仕事を始めるということをしない点にある。ブリコルールの道具的世界は閉じており、彼のゲームのルールは『手持ちの手段』(moyens du bord)、つまりある時点において手元にある限りの道具と材料で、やりくりするということである。この材料と道具には統一性がない。もともとその仕事のためにあるものではないし、そもそもいかなる特定の計画のためのものでもないからである。(…) それゆえブリコルールの有する手段をその作業目的によって定義することはできない。それらはその道具性 (instrumentalité) によってのみ定義される。つまり、ブリコルールの言い方を借りて言えば、彼のストックを形成する諸要素は、『こんなものでもそのうち何かの役に立つかもしれない』(Ça peut toujours servir) という原則に従って集められ保存されてきたものなのである。」(Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage, Plon, 1962, p.31)

高橋さんとレヴィ=ストロースが言っているのはたぶん同じことである。
「これこれでなきゃダメ」というのが原理主義である。
「使えるものがこれしかないなら、これで何とか折り合いをつけよう」というのが機能主義である。手持ちの限られた材料と手段で最高のパフォーマンスを達成するにはどうしたらいいのかということに知的リソースを集中できるのが機能主義者である。
私は機能主義者である。
私は人の判断や主張が「正しいか正しくないか」ということにはあまり(ぜんぜん)興味がない。私が関心を寄せるのはそのソリューションが「機能的」かどうかだけである。
「なまもの」を扱っている人はだいたい機能主義者になる傾向がある。
私がこの間お会いして話し込んだ人たちは考えてみたら全員「機能主義者」だった。
養老先生、名越先生、春日先生はお医者さんである。
解剖のための死体は養老先生が何もしないと今日も明日も明後日も死体のままである。
死体とにらめっこしているうちに、「あ、そうか、オレが動かないと何も始まらないんだということにはじめて気がつく」と養老先生はおっしゃっていた。
名越、春日両先生は精神病院の救急棟で危機的状況の患者と待ったなしで直面するという修羅場を何度もくぐり抜けてきた。
そういうときに「こんな症例は教科書に出てなかった」とか、「こういう患者は私の治療理論になじまない」といって逃げ出すことはできない。
池上六朗先生は人間の身体を相手にする前は船に乗っておられた。
船が座礁したときに「誰のせいだ」「どうすれば座礁しないですんだのか」というような原因究明をしても始まらない。
「座礁した」という事実を与件として、使えるだけの道具と人間的リソースを駆使してどうやってこの窮状から脱出するかを考える。それがシーマンシップだと池上先生はおっしゃっていた。
三軸修正法は「どうして患者が治るのか理由がわからない」と池上先生は言われる。
「原理はわからないけど、現に治るんだから、それでいいじゃないか」
これは典型的に機能主義的な態度である。
三砂ちづる先生は「胎児・新生児」というなまものを、甲野善紀先生は「敵の身体」というなまものを、高橋源一郎さんと橋本治さんは「ことば」というなまものを、大瀧詠一さんは「音」というなまものを、それぞれ機能主義的に扱っている。
意味とか価値とか正しさとか合理性とかいうことはブリコルールにとって副次的なことである。
目の前に「なまもの」があるときに、とりあえず「手が勝手に動いておろしてしまう」というのが機能主義者の骨法である。
だから、「原理主義はダメだ」というようなことを機能主義者は決して言わない。
「原理主義はダメだ」というのはもうひとつの原理主義である。
だって、「原理主義者」は私たちにとっての「なまもの」だからだ。
だから私がこういうことを書くといろいろ文句を言ってくる人がたくさんいるはずだが、彼らに対して「あなたの言うことは間違っている」というような愚かなことを私は決して言わないのである。
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