私の好きなふたつのこと(さらに増補改訂版)

2006-02-06 lundi

久しぶりに土曜日の合気道のお稽古。
広い道場で思い切り動き回るとたいへん気分がよろしい。
このところ腕の旋回をどう体幹の動きと繋げるかということを宿題にしている。
手首を握られているときに肘や肩を支点にしたヒンジ運動をするとすぐに咎められることは誰でもわかる。
これをどうクリアするか。
手首を握るときに人間は「手の内の締め」というものを行う。
一般のひとは「手首を握る」というと、手錠のようなもので手首に均等の圧力をかけて締め付ける運動を想像するだろう。だが、実際には掌の筋肉は螺旋状に動いていて、その圧力は小指近くから人差し指のつけねにかけて巻くように移動している。
私の手首を握る相手の手の内の締めと私の腕の旋回の運動の質を整えると、手を締める運動は、私の動きを制限する代わりに、私の腕の旋回運動にエネルギーを備給する。
相手に手首を握られるということを、私たちは可動域を狭められるネガティヴな条件づけだと考えやすいが、見方を変えれば、それがコヒーレンスの立ち上げのためのきっかけを提供するものとなる。
合気道について、よく「相手の力を利用して投げるんでしょ?」と訊かれる。
ある種の力を利用するのはまちがいないけれど、「相手の力を私が利用して」という文型はまちがっている。
このとき力を利用しているのは、私でもなく相手でもない。
私と相手が触れ合うことによってその場に成立した「私と相手をともに含む複素的身体」である。
自動車を運転する場合を考えればよい。
私がドライバーで、相手は自動車である。
この二つは別のものである。
私は自動車に閉じ込められ、シートベルトで締め付けられ、いくつかの器具を動かす以外の動作を禁じられている。
でも、車の運転というはそういう初期条件を受け入れなければはじまらない。
自由自在に手足を伸ばし、360度の視野を確保した上で運転をしたいと言ってもむりである。
自動車は一台ずつ癖がある。
排気量が違うし、車幅も車長も車高も違う。アクセルレスポンスも違うし、ブレーキの効きも違うし、ステアリングの遊びも違う。
私たちが車に乗るというのは、そのつど新しい拘束条件を受け入れるということである。
しかし、どんな場合も「運転する」という操作の本質は変わらない。
するすると車を走らせて、新緑の郊外のひろびろとした道を走っているときに、「私は自動車の動力を利用して空間移動をしている」などと思う人はいない。
そういうとき運転者と自動車は一体化しており、複素的な身体を形成している。何もせっかく成立している複素体をわざわざ腑分けして「ここからこっちが私で、あっちがメカ」などと言い募る必要はない。
ドライバーが気分がよければ、車だって気分がよさそうである。
鞍上人なく、鞍下馬なし。
それが複素的身体のありようである。
武道も同じ。
敵とか味方とか、そういう要素的なことをがたがた言うのは止めて、一期一会で構成されたその一回限りの複素的身体がどれほどのパフォーマンスを成就しうるのか、それを探求してみてはいかがかというのが合気道的な考え方である。
「敵を作らない」ということは武道の基本である。
「天下無敵」とは、邪魔する相手をぜんぶ殲滅したので、天下に敵がないという意味ではない。
敵に出会わなければそもそも敵はいない。当然、無敵である。
敵とであっても、それを「敵味方」というスキームでとらえなければ、敵は概念としては存在しない。
ごく論理的なことを言っているのである。

午後4時から連盟第三回例会。
本日連盟戦デビューのカワカミ牧師がまず登場。来る電車の中でも「これから麻雀ができると思うと、つい笑みがこぼれて・・」困ったそうである。
続いて次のエレベーターで越後屋さん、その次のエレベーターでカンキチくんが登場して、面子がそろい、4時4分にサイレンの音も高らかに、一同「お願いしまーす」の挨拶とともにキックオフ。
始まって数分後に平尾さん、そのあと釈先生、青山さん、弱雀小僧ジローくん、江さん、ヤマモト画伯、ワタナベ先生、ドクター佐藤、飯田先生とみごとに3卓分の、メンバーが揃っての一大麻雀大会がここに決行されたのである。
4時から始まった連盟定期戦、最後の半荘が終わったのは午前1時を回っていた。
戦績の詳細については自慢になるのであまり言及したくはないが、半荘5回に参戦して、4勝という驚異的勝率を収めて、連盟会長としての職責を果たしたということのみを記すにとどめたい。
弱雀小僧は今日もまた「えええ、どうしてあがれないんだあ」と宿命的なフレーズを繰り返し、越後屋さんも「ははは、ぼくはどうせトップ取れない星の下に生まれたんです。膝も抜けちゃったし」と力なく笑い。青山さん、飯田先生のどちらが先に一勝をあげるかを競う女の戦いも依然決着を見ないまま熾烈をきわめ、初登場のヤマモト画伯は参加した全半荘においてトップを取ることあたかも自明であるがごとくに悠々たる牌さばきを示されていたが(そういう人なんです)、「おかしい、なぜ私が勝てずにウチダが勝つのだ?」と深い懐疑のうちに沈淪せられていたのである。
いやあ麻雀てほんとに楽しいですね。

と書いてパレスホテルの部屋から更新したのであるが、家に帰って点数表を確認したら、私の戦績は5の4ではなく、6の5であった。自慢の上塗りをするようでいささか気恥ずかしいのであるが、真実を隠蔽することを学者の良心が許さないのである。
ちなみに勝率ベストテンは以下の通りである(同率の場合は点数による)

1位:シャドー影浦   4戦3勝   0.750       109
2位:歌う牧師     4戦2勝   0.500        57
3位:泳ぐ英文学者  2戦1勝   0.500        16
4位:連盟会長   15戦7勝    0.467       224
5位:だんじりエディター 13戦5勝 0.385        80 
6位:如来寺住職     8戦2勝 0.250         33
7位:栄光の14番    8戦2勝 0.250         13
8位:かんきちくん    8戦1勝 0.125          2
9位:ドクター       9戦1勝 0.111        -81

ということは連盟会員残り6名はいずれも「未勝利」でかつ(当然にも)累積点数マイナスということなのである。
1、2、3位は常識的には「規定打数未満」という扱いも考えられるのであるが、本会はそのようなせこいことは言わずない。ぜひ、長いスパンでの戦績の経時変化を観察していただきたいと思う。
本会のJ1メンバーは創設時に参加した貢献度を重視して、これまで会長、だんじりエディター、住職、ドクター、越後屋の創設5名をもって「永世J1会員」に認定しているが、称号と実力が必ずしも相応していないのではないかという不満が会員間にくすぶっていることを会長としては重く見て、越後屋とドクターが第一四半期終了時までに「J1」会員に恥じない戦績を達成しえない場合は、その時点で彼らよりも勝率・勝ち点ともに上位のJ2会員二名との称号の入れ替えを行う可能性があることを示唆しておきたい。
当面甲南麻雀連盟のJ1会員は「5名枠」を堅持したいと考えている。
なお、本会でいうJ1、J2というのは純粋に名誉上の称号であって、その称号の種類差は(J2会員に折に触れ向けられる暖かい技術的指導以外の)いかなる差別待遇を伴うものではないことを人権的配慮をふまえてここに明らかにしておくのである。

さらに増補改訂:
たいへん失礼なことをした。釈住職の勝率の分母を転記ミスしていたことをご指摘いただいた。
真実は4戦2勝であり、勝率は0.500であった。5割は同率が3名いるので、勝ち点で住職は第三位となる。
というわけで「泳ぐ英文学者」から「だんじりエディター」まで順位はひとつずつ繰り下げとなる。
住職の雀威に一抹の汚点を残した不明をここに伏してお詫びしたい。
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