キャリング・キャパシティの限界

2006-02-04 samedi

今朝の毎日新聞で少子化問題について古田隆彦青森大学教授(人口社会学)がきっぱりした正論を書いておられた。
毎日新聞を読んでいる方はあまり多くないので(論調の抑制がきいたよい新聞であるのにね)ここにご紹介するのである。
人口容量(carrying capacity)という概念がある。

「容量が一杯になると、原生動物からほ乳類まで、ほとんどの動物は生殖抑制、子殺し、共食いなどで個体数抑制行動を示し、容量に確かな余裕が出るまで続ける。」

日本列島の人口容量は、旧石器時代で3万人、粗放農業文明期で700万人、集約農業文明期で3300万人と推定されている(江戸時代が3000万人、明治末期で5000万人)。

「この壁にぶつかる度に、日本の人口は停滞もしくは減少を繰り返してきた」

人口容量が限界に近づくと、どういうことになるか。
限りあるリソースの分配方法の選択を迫られることになる。

「親世代は自らの水準を下げて子どもを増やすか、水準を維持して子どもをあきらめるか、の選択を迫られる。が、すでに一定の豊かさを経験している親世代は、それを落とすことを嫌うから、事前に晩婚や非婚を選んだり、結婚後も避妊や中絶を行って出生数を減らしていく。」

現在日本の人口は1億3000万人。これは列島のリソースが養える限界に近い数値である。
「そこで、多くの日本人は無意識のうちに人口抑制行動を開始」しはじめてる。
「つまり、『晩婚化・非婚化』や『子育てと仕事の両立が難しい』という理由の背後には、『飽和した人口容量の下で自らの生活水準を維持しよう』という、隠れた動機が働いている。」
「ところが、エンゼルプラン以来の少子化対策は生活水準を上げてしまう。人口容量が伸び悩んでいる時、生活水準をあげれば、許容量はますます縮小し、その分出生数を減らし死亡数を増やして、人口を減らす。ミクロの増加がマクロの減少を招くのだ。
『子育てと仕事の両立を進めるな』と言っているのではない。『この種の政策では出生数の回復は無理』と言っているのだ。」

古田先生のご意見にわが意を得た思いである。
私がエンゼルプランや男女共同参画社会の基本的な発想に対して懐疑的なのは、これらの施策がその根本的な人間観として、「人間は金で動く」ということを自明のものとしているからである。
エンゼルプランというのはひとことで言えば「金をやるから子どもを産め」ということである。
男女共同参画社会の基本にある人間観は、「男も女も要するに金が欲しいんだろう」ということである(「金」のかわりに「個性発現の機会」とか「潜在可能性の開花」とか、言い換えても構わないが)。
キャリング・キャパシティに余裕があるときは、「金」は「生物的リソース」と相関しているから、金を求める行動を最優先することは生物としての生存戦略と背馳しない。
しかし、リソースが限界に近づくと、「金」はもうリソースの分け前を「兌換」的には表象しなくなる。
それは、「タイタニック号沈没間際」になると、札びらを切ってももう誰も「ボートの席」を売ってくれなくなるという状況と類比的である。
日本人は(なけなしの)生物的本能によって、「これ以上人口を増やすと個体の生存戦略上不利である」という判断を下した。
もちろん、人を生存戦略上不利な選択へと「金」で誘導することもできないわけではない。
できるかも知れないけれど、そんな誘導にひっかかるのは、生存戦略不利な生き方を平気で選んでしまう個体だけであるから、そんなDNAを受け継いだ子どもたちがたくさん生まれても定義上、「種の存続」の役には立たない。
少子化対策をする気があるなら、子どもを増やすことではなく、人口容量を増やす工夫に向かうべきだろう。
しかし、それは画期的な文明の転換がなされない限りありえない。
いまさら海外に植民地を作るわけにもゆかない。
だとすれば、私たちが選択できるのはスマートに「縮むこと」だけである。
ということを何年も前から申し上げているのだが、同意してくださるかたがほとんどいなかった。
今回、人口社会学者の力強い同意を得たので、ここに欣快の意を表するのである。
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