まず日本語を

2006-02-03 vendredi

教育関係の雑誌から原稿依頼が来て、「提言」をすることになった。
読者は全国の公立学校の校長教頭のみなさん。
初等中等教育についてご提言したいことはやまのようにある。
だが、こちらは現場の大学教師である。
「あれをしろこれをしろ」と世間に言う暇があったら、自分で腰を上げて、できることからやってしまった方が話は早い。
それでも、徒手空拳ではおのずと限界がある。
ときには世間さまに向かって直訴したいことだってある。
せっかくの機会であるので、ひとつだけ直訴することにした。
日本語教育をちゃんとやってください、というお願いである。
題して「まず日本語を」

私が提言したいのはただ一つ、「日本語教育にもっと時間を割く」ということである。
今年からセンター試験にリスニングが導入された。率直に申し上げて、どうして英語教育にこれほど優先的に教育資源を配分しなければならないのか、私には理由がわからない。「英語の運用が不自由であるのだから、それを強化するのは当たり前だ」という反論があるだろう。だが、それ以前にこの若者たちは母国語の運用が不自由なのである。英語の運用が不自由であることによってこの若者たちが将来的に受ける不利と、母国語の運用が不自由であることから受ける不利のどちらが大であるか、そんなことは誰にでもわかるはずだ。
しかし、母国語の運用能力の育成に優先的にリソースを投じろという声はほとんど聞かれない。おそらく多くの人は「日本語なんて誰でも自由に使える」と思っているのだろう。それどころか、「NHKのアナウンサーも、『天声人語』も誤った日本語を平気で使うご時勢なのだから、日本語運用が不自由であることは本人に競争的な不利をもたらさない」というような不思議なロジックで日本語教育の崩壊状態を放置している人々さえいる。
私にはこれは亡国の徴候のように思われる。
私が提言するのは、ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うことである。「これはどういう意味か」とか「作者は何を言いたいのか」とか「この『それ』は何を指すか」とか、そんな瑣末なことはどうでもよい。名文には名文にしかないパワーがある。それに直接触れるだけで読み手の中の言語的な深層構造が揺り動かされ、震え、熱してくる。そして、論理的思考も、美的感動も、対話も、独創的なアイディアも、この震えるような言語感覚ぬきには存立しえないのである。
独創性は母国語運用能力に支えられるというと意外な顔をする人が多い。だが、創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。母国語を話していながら、「次の単語」が出てこない人間、階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない。
もちろん、私はだから外国語の習得は不要だというような攘夷論を語っているわけではない。外国語の習得は自分がそれを用いて思考し、表現している母国語の個性と限界、自分がその中に囚われている「種族の思考」を客観視するためには必須のものである。
だが、その機能はあくまで母国語による思考をより深め、より豊かにするために副次的に学ばれるべきものだと私は思っている。
日本の知的未来に投資するなら、まず日本語を。
英語はそのあとだ。

この文章の中で私がいちばん重要だと思うのは、「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される」というところである。
どうして重要かというと、ここに書かれているのはこの原稿を書き始めるまでは「そんなことを自分が考えているとは知らなかった」ことだからである。
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