メディア・リテラシーとトリックスター

2006-02-02 jeudi

神戸新聞の取材。
「ホリエモン」について。
もうその話はいいじゃないですか、飽きたよ・・・と思うけれど、そのことについてお訊きしたいと言われると違う話をするわけにもゆかない。
堀江という人にもその「錬金術」にも私は興味がないけれど、この人の「立ち位置」にはいささか興味があったので、その話をする。
マクラにひとことメディア批判。
事件以降、実に多くの識者たちの「これまでさんざん英雄視してきて、一夜明けたら犯罪者扱いして石もて追うごときメディアの変節は見識がない」ということをメディアに書いていた。
でも、メディアがにぎやかに行ってきた堀江の「英雄」報道を読者たちが真に受けていたとかの識者たちは思っているのであろうか?
メディアが人を持ち上げるのは「落とす」ときの落差をつけるためである。
たいしたできごとでもないものをスペクタクルにかさ上げするのはメディアの本業のようなものである(東スポを見よ)。
「たいしたことない人間」だと思っていても、紙面では「英雄」だの「アイドル」だのと持ち上げてみせる。
そんなメディアの人物評をまじめに受け取る読者はいない。
練れた読者は、メディアが誰をほめようとけなそうと、かならず割引をして情報の「補正」を行っている。
その補正の適切さを「メディア・リテラシー」と呼ぶのである。
メディア・リテラシーの「低い」読者はいるが、メディアの下す人物評を100%真に受ける「メディア・リテラシー・ゼロ」の読者なんていない。
いないものをあたかも国民の過半がそうであるかのように識者たちは言う。
発言する識者自身、「自分が100と言ったら70くらいに読者は補正して取るんだろうな」と無意識に計算している。だから、「70」と言うべきときに「100」と言う。
私たちはそれをもまた「割り引いて」読んでいる。
しかし、書いている本人はそんな「かさ上げ」の操作を自分自身がしていることにしばしば気づいていない。
その「病識」が希薄である。
その点では、メディアを批判する人たちには「受け取る側が補正しなければならないような情報を流すな」という資格が十分にあるように私には思えないのである。
そういうウチダはどうなのだという反問があるだろう。
私は「話半分」の人である。
掛ける0.5というのが「ウチダの情報精度指数」である。
このディスクロージャーを私の知的誠実さのあかしとして受け取って頂きたい(むろん話半分で)。
本題は堀江的存在、すなわちトリックスター、フィクサー、インターフェイス、鵺、コウモリ、キマイラ、コミュニケータ、架橋者・・・的なものの練度や質が落ちたということについてお話しする。
私たちの社会は規範や価値観を異にするさまざまな下位集団に区分されている。
その集団と集団の境界には段差があり違和があり、どちらの価値観も通じない「ノーマンズ・ランド」が拡がっている。
ガチンコで突き当たるとフリクションが起こる。
その調整をする人が要る。
「あちらが立てば、こちらが立たず、こちらが立てば、あちらが立たない」という状況を単一の度量衡しか持たない人間は調整できない。
単一の価値観が支配している「世界」では最適行動とされているものが、この「あわい」では使い物にならないということが起こる。
例えば武道というのは、「生と死のあわい」に立つ術である。
生死の境というのは、生者の世界の法則が「通じない」状況のことである。
だが、その状況を適切にやり過ごさないと生き延びることができない。
だから、「生き延びる」ためにこそ、「生者の世界の法則」を一時的に「棚上げ」するという、ひとつ次数の高いふるまいが要請される。
自分の手持ちの規範や価値観や度量衡が使い物にならなくなった状況でも人間はなおある種の条理にしたがって生きることができる。
この「無規範状態における条理」の発見がひさしく人間的成熟の目標とされてきた。
少なくとも私たちの社会では長い間そのように信じられてきた。
山岡鐵舟は「幕末三舟」と呼ばれた功臣でありながら、維新後は明治天皇の侍従として重用された。知友は清河八郎、松岡萬、清水次郎長、三遊亭円朝、市川団十郎など実に他分野にまたがっている。
私はこの山岡鐵舟こそ近代日本における「トリックスター」のロールモデルだったのではないかと思っている。
鐵舟のもっとも有名な逸話は、勝海舟に依頼されて、江戸開城の談判のために益満休之助ただひとりを同行して東海道を下った話である。
鐵舟が六郷川をわたると篠原國幹が率いる薩摩藩の鉄砲隊に遭遇した。
鐵舟はそのまま単身ずかずかと本陣に入り、「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎大総督府へ通る」と一喝した。
篠原は山岡の剣幕に圧倒されて手も出ず、口もきけなかったという。
そうやって鐵舟は紅海を渡ったモーゼのように官軍のまっただなかを突っ切って、神奈川駅の西郷のもとにたどりついたのである。
江戸は「徳川幕府」の世界である。多摩川の西は「官軍」の世界である。
このふたつの世界は別のロジック、別の原理で機能している。
その「あわい」で適切にふるまうためには、幕臣としての忠誠を貫いても通らないし、官軍の威勢に屈しても通らない。
そのとき、鐵舟はそのどちらでもない条理に基づいて行動してみせた。
「朝敵家来」という鐵舟の名乗りは、彼が幕臣としての自分の立場に固執している限り、決して出てくるはずのないことばである。
これは官軍から鐵舟を見たときの彼の立ち位置である。
その「朝敵家来」という「他者からの規定」を引き受け、かつそれを論理によってではなく「朝敵家来が現にここに存在して、官軍将兵を圧倒している」という事実によって否定するという大技を鐵舟はここで繰り出してみせた。
西郷との会談でも鐵舟はそのトリックスター的天分を発揮してみせる。
西郷の提示した和平条件を鐵舟は呑み、恭順の意志を示した幕府をさらに追撃するのは「王師の道」にはずれる行動であろうと西郷を牽制する。
だが、条約の一条に含まれていた徳川慶喜の「備前預かり」を鐵舟は一蹴する。
「君臣の情」として忍びがたいというのである。
慶喜の処罰をなお求める西郷に鐵舟は「あなたと私と位置を換えて論ずることにしよう」ともちかける。

「今かりにあなたの主君の島津公が誤って朝敵の汚名を受け、官軍が討伐に向かったとして、あなたが私の地位となって主君のために尽力したとしたならば、命令だからといっておめおめ自分の主君を差し出し、安閑としてそれを傍観しておられるかどうか。君臣の情としてあなたにそれができますか」と詰め寄る。(小倉鉄樹、『おれの師匠』、島津書房、1998年、143頁)

「王師の道」としてことの理非を明らかにし、「君臣の情」として非とされたものに殉じる覚悟を述べる。
複数の視点から同じ問題をみると、見える風景が変わってくる。
鐵舟は「王師の道」から問題を論じ、「君臣の情」から問題を論じ、幕臣の立場から論じ、西郷の立場から論じる。
そのような自在な視点の転換ができるということ、矛盾を矛盾のまま引き受けることができるという点がトリックスターの知のありようなのである。
私たちの時代の不幸は、このような「無規範状態の条理」の探求を人間的成熟の目標に掲げる習慣を失ったことにある。
その現代日本に登場したグローバリスト・トリックスターは「王師の道」も「君臣の情」もすべては「金」という統一度量衡でカバーできると考えた。
価値観を異にする複数の世界のインターフェイスでどうふるまうかという真に人間的な問いは、「世界中どこでも欲しいものは全て金で買える」という「イデオロギー」の瀰漫によってかき消されてしまったのである。
ライブドア事件が私たちにもたらしたもっともきびしい教訓はこのことではないかと私には思われる。
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