お昼から『週刊ポスト』のインタビュー。
ポストの読者は30-40代の「おじさん」たちだそうであるが、そのかたがたに「ご提言を」をという要請である。
はあ。そうですか。
先般は藤原正彦先生が「日本人よ、惻隠の情を持て」とご提言されて、たいへん好評だったそうである。
というわけで、私も「日本人よ」というワーディングで何かひとことと三秒考えたのち「日本人よ、身の程を知れ」とご提言申し上げる。
「身の程を知る」とか「分際をわきまえる」とか「身の丈にあった望みを持つ」という謙抑の美徳はすでに忘れ去られて久しい。
しかし、私の見るところ、この「自己評価の適切さ」に対する配慮の欠如は現代日本人の不幸のかなりの部分について原因となっているように思われる。
私たちの不満の多くは自己評価と第三者評価のあいだの「ずれ」によってもたらされる。
ほとんどの場合、私たちの自己評価は第三者評価よりも高い。
「なぜ、私のような卓越した人間がそれにふさわしい敬意と威信を得られないのであろうか?」ということばづかいで私たちの社会的不満は形成されている。
これはもう、どなたも同じである。
その結果、「どうして私だけがこんな不当な目に・・・」という上目づかいの口への字という表情のかたがたが社会のマジョリティを占めることになるのである。
「みんな同じ表情」をしているので、みなさん「それがふつう」とお考えのようであるが、それは違う。
日本人がみんな同じような恨めしげ物欲しげな表情になったのは、比較的最近のことである。
グローバリゼーションとこの「不満顔」は同時的に生起した。
グローバリゼーションとは、アメリカにおける国民統合の装置のことである。
かの国は移民国家であるので、国民各位はもともと人種も言語も宗教も習俗も異にしている。それを単一国家に統合するに際して、アメリカはふたつの「共通基盤」を採用した。
ひとつは「星条旗に対する忠誠心」、ひとつは「ドルに対する信頼」である。
「神はアメリカを嘉したもう」と唱和することと、「金持ちは貧乏人よりアメリカ社会への適応が進んだ人間である」と認めることがワンセットになってアメリカのシチズンシップは形成されたのである。
これは「もともと共通の度量衡をもたない集団」を統合するための装置である。
目的はあくまで「統合」であり、比較考量はその副次的効果である。
しかし、そのローカルな事情を忘れたまま、グローバリゼーションは日本に輸入されて、「日の丸に対する忠誠心」と「金もちは偉いという価値観」に読み換えられた。
よけいなことをしたものである。
いまさら言うまでもないことだが、日本はほかのどの国民国家と比べても、きわだって均質性の高い社会である。
均質性が高いという共通の基盤があったので、その上にローカルでヴァナキュラーな習俗やライフスタイルや価値観が豊かに展開されてきたのである。
本来「均質性のない社会集団」を統合するための装置として要請されたグローバリゼーション圧を日本のようなもともと均質性の高い社会にかけた場合、どのような結果がもたらされるのか。
そのネガティヴな結果について考えた人はいなかったのだろうか。
きっといなかったのだろう。
その結果、日本は世界に類をみないほど均質的な社会になってしまった。
かつては性が違い、年齢が違い、地域が違い、職業が違い、社会的立場が違うひとは、それぞれ固有のエートスを保持していた。
それぞれの社会集団が、それぞれ固有のエートスを保持している限り、そこに単一の度量衡をあてがって、「どちらが社会により適応しているか?」「どちらがより成功しているのか?」というようなことを問う人はいなかった。
しかし、今は1億3千万人の日本国民を「年収」だけを指標にして一元的に考量することが可能であると考える人々がマジョリティになった。
そうやって、ひとびとは「身の程をわきまえる」という規範を失った。
「身の程」というのは、自分がそれを基準にして生きている規範の地域性・特殊性のことである。
自分が規範としているものは、他の社会集団には適用されない。
だから、自分と同じ規範に従っている人の言動については、ことの良否を言うけれど、自分の規範とは違う規範で行動している人については、礼儀正しい不干渉を保つ、というのが「身の程を知る」ということである。
今、日本人たちは「権力、財貨、情報、文化資本の占有を求めることがすべての人にとっての生きる目標である」と信じている。
それが日本的グローバリゼーションの帰結である。
それは繰り返し用いる比喩を使っていえば、連休にディズニーランドに行って、「なんでこんなに人が多いんだ」と怒っている人間のあり方によく似ている。
彼は他人と同じ行動をすることによってしか快楽を得ることができないのであるが、「他人と同じ行動をする」という当の事実が、そのつど彼が快楽を得ることを妨げるのである。
「他の人が欲しがるもの」を欲しがるというかたちでしか欲望を起動させることができないので、彼は物欲しげな顔になり、「他の人が欲しがるもの」はまさに当のその理由によって彼の手には入らないがゆえに、彼は構造的に恨めしげな顔になる。
全員が似たもの同士になった日本社会に住む人間たちが、「うらめしげでかつ物欲しげ」な表情を顔にはりつけてしまったのはだから当然の成り行きなのである。
私が「身の程を知れ」というのは、そのことばの通俗的理解が意味するように「他人の顔色を伺って身を縮めて生きろ」ということを言いたかったからではない。
他人と違う行動をすることから快楽を得るような生き方にシフトした方がいいんじゃないですかとご提言申し上げたかっただけである。
「礼儀正しい不干渉」とか言ってるわりには、よけいなお世話でしたけど。
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(2006-01-28 14:54)