角川書店のエッセイ本(そろそろタイトルを考えないといけない)の「あとがき」をこりこり書いていたら電話が鳴って、M日新聞から京大の元アメフット部員三人が集団強姦で逮捕された事件についてのコメントを求められた。
翌日の朝刊に事件が報道されるので、それにつき「識者のコメント」としてひとことお願いしたいと言う。
電話取材でのコメントというのは、かなりじっくりとユニークな解説を展開しても、記者が「その程度のことは誰だって気がつく」平凡な感想にまとめてしまって、結局名前を出された本人が満天下に恥をさらすことになるので、あれはよしたほうがいいよと以前に忠告されたことがある。
だから、電話取材に対しては「やです」とすばやく断る。
「どうして、ダメなんですか?」と訊くので、「だって・・・」と上記のごとき理由を告げる。
「いや、20行くらいは取りますから」
「でも、勝手にわかりやすく書き換えちゃうんでしょ?」
「多少はそうですけど、一応原稿送りますから、それに手を入れて結構です」
最終的にチェックができるなら、まあいいかということで15分ほど感想を述べる。
私が言いたかったのは、こういうのは「大衆社会」に固有の現象だということである。
大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
どうしてそうなるのかというと、大衆の行動基準は「模倣」だからである。
オルテガが看破したように、「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』)
彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。
これはある意味では合理的な判断である。
上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのはたしかな経験則である。
だから、大衆社会の人々がほんとうに「みんな」がやっていることを是とし、「みんな」がやらないことを非としているのであれば、(オルテガ先生に逆らうようで申し訳ないけれど)、実は大衆社会というのはかなり住みよい、条理の通った社会なのである。
では、なぜ大衆社会がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するのである。
るんちゃんが子供の頃、おもちゃを買って欲しいと言ってきたことがあった。
「どうして?」と訊くと、「みんな持ってるから」と答えた。
「みんな、って誰?」と重ねて訊くと、「うーんとね、なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・」
そのときの「みんな」は一名様だったわけである。
問題は「みんな」がどれほどの個体数を含むのかが「みんな」違うということなのである。
ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。
大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。
無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
それが大衆社会にかけられた「呪い」である。
逮捕された京大生たちは「いずれも容疑を否認している」そうである。
彼らには犯意がなかったらしい。
その場にいた三人全員でやった以上、「みんな」がやったことだから、咎められるはずはないという大衆社会固有の推論に基づいての判断だったのであろう。
彼らは学生たちの狭い社会の外側に「刑法」という上位規定によって規制されている社会が拡がっていることを(知識としては知っていても)、実感したことがなかったのである。
というようなことをたしかに20行にはまとめられないね。
角川新書のエッセイ集のタイトルを発作的に『態度が悪くてすみません』に決定。
E澤さんは『身体復権』とか『身から出たご縁』とか、なかなか渋いタイトルをご提案くださったのであるが、そのようなご提案を無視して、勝手にタイトルをつけたりして、態度が悪くてすみません。
というように私の日ごろのすべての言動に適用することのできる、たいへん汎用性の高いタイトルなのである。
音も「た」で始まって、「ん」で終わり、8モーラ、5モーラでぴったり。
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(2006-01-27 09:38)