週末が試験でつぶれたのに月曜も一日仕事。
会議が四つに試験が一つ。
最初の会議は1時20分に始まり、最後の会議が終わったのが8時45分。
どうしてこんなに会議が多いのだろう。
二つめの会議は大学体育館をどうするかについての会議。
別にごくビジネスライクな意見交換だけで終わりそうな話なのであるが、今大学体育館に数億円を投じて作ることはそれほど投資として優先順位が高い事業なのかという話になってきて、学内合意がなかなか成立しない。
たしかに経営者的視点からすると、在学生というのは「入学時に約束されていた以上の教育サービスを提供する必要のない人々」である。
大学入学をある種の「契約」と考えれば、入学時に校舎がボロだった場合、四年間その「ボロ校舎」に通学することに不満を唱える「権利」は学生にはない。
理屈としてはそうである。
だから、学生たちから徴収した授業料収入は「次年度以降の志願者」を増やすためには、(体育館のような「地味な」教育施設ではなく)「対外的にアピーリングな」事業に優先的に投資すべきである、というのが経営者的な発想である
考え方としては間違っていない。
けれど、在学生の側からすると気持ちがすこし片づかない。
「まず隗より始めよ」という古諺もある。
燕の昭王が天下の賢者を集めて、そのブレーンにしようとしたことがあった。
そのとき、臣下の郭隗が、「そういうときはまず今お仕えしている私どもをもっとだいじにしてください」と進言する。王が怪しむと、隗は「私のような三流の人士であっても昭王は厚く遇しているという風聞が世間に伝わると、賢者たちは『隗程度の者でも優遇されるのであれば、私などはどれほどの敬意をもって遇されるであろう』と期待して、進んでおしよせるでありましょう」と答えた。
遠大な事業をなさんとするときは、まず卑近な事から始めよという教えである。
と教科書や辞書には書いてあるが、私はその真意は別にあると思う。
というのは、この程度のパブリシティで「私などはどれほどの・・・」と思ってやってくる学者たちはよく考えると「隗程度の者の策略に乗ぜられた」という事実から推して、あまり賢いとは思われないからである。
「あまり賢くない賢者」というのは形容矛盾である。
つまり、これは「賢者を集めるコツ」について述べているかに見えて、実は「賢者はつねに足下にあり」ということを言おうとしているのである。
禅語に言う。「脚下照顧」。
落語『こんにゃく問答』に言う。「三尊の弥陀は眼下にあり」
私も先賢の驥尾に附してこう申し上げる。
在学生に対する教育サービスの充実をまず優先的に配慮することは、何年か先の志願者の頭数を皮算用でふやしてみせることよりもよほど大切なことである。
いまいる学生の一人一人が私たちの「隗」である。
まず隗より始めよ。
志願者をできるだけ多く集めることは経営上たいせつなことである。
けれども、そのための投資を在学生に対する教育サービスの質を低下させることでトレードオフしてはならない。
ということを会議の席では申し上げたつもりであったが、途中からつい「なにいってやがんでえべらぼうめ」と江戸っ子啖呵でまくし立てたせいで会議は要らぬ大騒ぎになってしまった。
反省。
会議が終わって家によろよろと帰ってきたら、「憲法本」の原稿の感想が三人から届いていた。
編集者の中野さんと、共著者の平川君。もうひとりは、ちょうど一昨日のブログ日記に「日本はアメリカの植民地だ」と書いていた鈴木晶先生である。「おお、シンクロニシティ!」というので、「ちょうど同じ頃にこんなん書きました」と添付ファイルでお送りしたのである。
みなさん「たいへんおもしろい」というご感想であった(「たいへんおもしろい」と言って下さるに違いない「世の中の仕組みがよくわかっている方」にのみ選択的にお送りしたのであるから当然のことであるが)。
中でも平川君の「腰が浮くほどおもしろい」という評語にはたいへん感動した。
平川君の憲法論は戦後日本の市民的エートスの変遷に焦点をあてたもので、テンションの高い達意の名文である。
『憲法本』はたいへん面白い仕上がりになりそうですから、みなさん出たら買って下さいね。
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(2006-01-24 10:23)