「企業や社会が求める人材育成を強化する大学が増えている」と毎日新聞が報じていた。
「終身雇用が崩れ、転職に有利な資格を求める学生と、新入社員をゼロから育てる余力のない企業の双方が、偏差値よりも大学の人材育成の内容自体に関心を寄せ始めている」
そのために、大学はカリキュラムを「即戦力形成」にシフトし、その一方で経営陣にビジネスマンを引き込んで会社経営のノウハウを淘汰期を迎える大学に導入しようとしている。
大阪経済大学の前理事長(井阪健一・元野村証券副社長)はこう言い切る。
「大学は産業社会の要求にあまりに無頓着だった。学生の付加価値を高め企業へ送り出すのが使命だ」
おそらくこういう物言いが経営危機に怯える大学の中でこれから幅を利かせてゆくようになるのであろう。
だが、私にはあまり賢い考え方のようには思われない。
私はもともと「キャリアデザイン」とか「キャリアパス」という考え方を好まない。
平川君の名言を引くならば、「資格や肩書きがものを言うと思っている人間」の前には「資格や肩書きがものを言うと思っている人間たちだけで構成されている社会」への扉しか開かないし、「金で買えないものはない」と思っている人間は「金で買えるものだけ」しか存在しない社会の住人になる他ない。
しかし、愛も敬意も知己も知性も胆力も感受性も師も・・・総じて私たちの生活のもっとも根幹をなすリソースのうち、威信や財貨によっても購うことのできるものは一つもない。
そもそも「即戦力」形成という発想がナンセンスであるということは玄田有史さんが『働く過剰』(NTT出版)でつよく主張している。
「しかし、いったいだれが、グローバル化社会のなかでの人材戦略とは、即戦力人材の活用であると言い出したのだろうか?」(8頁)
業績優良企業の人材戦略は「即戦力人材」とまったく逆である。
「企業競争力を決定するのは、結局のところ、人材であり、そのための教育にある(…) 逆に、業績の悪化した企業にかぎって、最初に削減するのが教育であり、人材としては即戦力を謳うようになる。即戦力志向とは、つまるところ、育成軽視の別表現にすぎない。」(8-9頁)
即戦力とは言い換えれば「金を出せば買える人材」のことである。
それは「どこの会社でも汎用性のあるスキル」であり、どこの会社でも同じようなパフォーマンスを発揮できる人間ということである。
そのような人材をどれほど集めても、他社との差別化は果たせない。
だって、そんなものは「金を出せばいくらでも買える」んだから。
「わが社のことを最も熟知し、会社と個人のあいだで強い信頼関係を形成している、わが社にしかいないような人材を、自前で育成することでしか、本当の意味での差別化は不可能なのである。したがって、最終的には、即戦力の調達だけでは限界があり、人材の育成を重視する企業だけが、ビジネス上、優位に立てるのだという、当たり前の結論に到達することになる。」(9-10頁)
私自身のささやかなビジネス体験も玄田さんの意見を裏づけている。
平川君と私が始めた翻訳会社は急成長の過程で、「即戦力」人材と「ゼロから育てる人材」を両方採用した。
別に確たる人材戦略があったわけではなく、「入れてください」と頼まれると断れない平川社長の温情のせいで行き当たりばったり的な人事が行われたのである。
だが、十年ほど経ってみると、会社の中核をなしていたのはすべて「ゼロから育てた」若者たちであった。
「即戦力」のみなさんはみんなどこかへ消えてしまっていた。
会社が見切りをつけられたのか、会社に見切りをつけられたのか、どちらであるかはわからない。
だが、限定的なプロジェクトのためにアドホックに採用された「即戦力」の多くがその後「はなはだ使い勝手が悪い」社員になったことは間違いない。
「私はこんな仕事のために雇われたんじゃありません!」というようなことを彼らは口を尖らしてよく言っていた。
だけど会社というのはジョブ・デスクリプションにはない「こんな仕事」や「あんな仕事」がどんどん発生してくる現場である。
「即戦力」のみなさんは「自分に相応しくクリエイティヴな仕事」だけをやりたがり、「雪かき仕事」を厭がった。
でも、会社の仕事の90%は「雪かき仕事」である。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないとみんなが困るタイプの仕事。
そういう仕事がいつのまにか片づいている職場と、業務命令してもみんなが厭がっていつまでも片づかない職場では、短期的にパフォーマンスの差がはっきり現れる。
資格や能力があって、それを「売り」にしている人間はたいてい「雪かき」をしてくれない。
だから、そんな人間ばかりを集めた場所はそれぞれの「オレの領分」だけが片づいていて、それ以外の「パブリックスペース」はすべてゴミだらけになる。
どこだって事情は同じである。
人材育成のコストを切り捨てて即戦力を求める企業とは玄田さんを信じるなら、「先のない企業」である。
そんなところに就職した諸君の前にあまり明るい未来は開けないように思われるのだが。
だから、今さらながらに「即戦力形成」というようなことを口走っている大学経営者こそ「産業社会の要求にあまりに無頓着」なのではないかと私は思う。
大学経営にビジネスマンを導入することについても、私は手放しでは歓迎できない。
一定数のビジネスマンがビジネスマインデッドな助言をしてくれることはありがたいことであるけれど、これらの人々に権限が集中することは教育にとって危険だと思う。
管理部門が肥大化し、教授会の決定権が狭められると、結果的に「ビジネスマンの経営者が『教育サービス』する従業員を頤使する」かたちになる。
だが、それはもう言葉の厳密な意味での「学校」とは言われない。
「師への欲望」が励起されない場所は、どれほど建物が立派でも、ITインフラが充実していても、財務内容がゴージャスでも、「学び」は起動しないからである。
だが、「市場とは何か?」「貨幣とは何か?」「交換とは何か?」「欲望とは何か?」といった根源的な問題を決して問わないことを習慣づけられてきた凡庸なビジネスマンは「学びとは何か?」といった根源的な問いを自らに向けたりはしない。
そんな人間がこれから大学で幅をきかせることになるだろうとメディアは予言している。
困ったことに、悪いことについてはメディアの予言もときどき当たる。
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(2006-01-17 13:29)