鬼婆と集団的狂気

2006-01-16 lundi

大忙しの週末が終わる。
土曜日は合気道のお稽古を途中で抜け出して、神戸文化ホールへ神戸観世会の新春能を見に行く。
下川宜長先生の『安達原』を拝見するためである。
一昨年の会で私は素謡『安達原』のシテをやったので、詞章はまだ覚えている。
このとき役作りにいろいろと工夫を凝らして、「鬼婆と山伏のエロティックな関係」を構想して詞章の解釈に挑んだことはご案内の通りである。
今回の下川先生の解釈はまったく違うもので、私は「いかにも下川先生!」と感動してしまったのだが、下川先生の鬼婆解釈は「鬼であることは婆であることよりも気持ちがいい」という「疾病利得」をふまえたものだったのである。
考えてみれば、『安達原』の劇的構成はどうも論理的に「変」である。
山伏一行を陋屋に泊めた老女は、真夜中に薪を採りに山へ出かけようとする。
まずこれが変。
真夜中ですよ。
もう山伏たちは眠り込もうとしているときに、なんでわざわざ。
さらに出かけに言わずもがなのことをいう。
「や。いかに申し候。わらわが帰らんまでその閨の内ばし御覧じ候な。」
最後の「な」は「なああああああ」とホリフィックなリバーブをかけるのである。
「構えて御覧じ候な」
ともう一回リバーブ。
しつこくもうひとりの山伏にも重ねて
「此方の客僧も御覧じ候な」
ふつうこれだけ執拗に「覗くな」というのは、「覗け」と命令していることとほとんど変わらない。
実際に間狂言では「覗くなと言われたら覗きたくなるのが人情・・・」と狂言師演じる強力が閨を覗く口実を述べている。
老女は腐乱死体が充満している閨を覗きたくなるように山伏たちの欲望を点火する。
それは、彼らが禁じられた部屋を覗くことが後ジテの「いかにあれなる客僧、止まれとこそ。さしも隠しし閨の内を。あさまになされ参らせす。恨み申しに参りたり」という変貌のトリガーになるからである。
それまで「げに侘人の習いほど。悲しきものはよもあらじ。かかる憂き世に秋の来て。朝けの風は身に沁めども。胸を休むることもなく。昨日も空しく暮れぬれば。睡む夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな」と気息奄々、息も絶え絶えにしおたれていた婆が、「胸を焦がす焔。咸陽宮の烟、紛々たり」といきなりスーパー・チャージャー付きの鬼婆パフォーマンスを展開するのである。
下川先生のシテは「鬼であることは、婆であることよりもフィジカルに気分がいい」というこの段差をはっきりと全身で表現していた。
橋がかりに鬼婆が出てきたところで、私は「ああ、そうか」と深く得心したのである。
どうして、人間が鬼になるのか。
「鬼になって人を食らう」というのはあきらかに深く精神を病んでいるということである。
しかし、人間は決してただ精神を病むのではない。
「見返り」がある場合しか人間は狂わない。
これは春日武彦先生から教えて頂いた重要な知見である。
鬼婆の疾病利得は「フィジカルな快感」である。
鬼になると、それまで萎えていた四肢の力が蘇り、エネルギーが湧きだして、原野を疾駆せずにはいられない。
下川先生の鬼は「いきいきとしていた」のである。
私は『安達原』の舞台を何度か見ているが、はじめてなぜ彼女が鬼婆になったのか、その理由を理解した。
正気の老女でいることより、狂気の鬼婆であることの方を彼女はどこかの時点でみずから選んだのである。
気持ちがいいから。
だから山伏に祈り伏せられた鬼婆が退治されるわけでも、改悛するわけでもなく、ただ「夜嵐の音に失せにけり」とされる結末も当然なのである。
I’ll be back
気持ちのいいことは止められません。

家に戻って、『憲法本』の続きを書く。
締め切りは月曜なのだが、とても間に合わない。
しかし、「正気で苦痛に直面するよりも、狂気を病むことの方を人間は選ぶことがある」という下川先生の鬼婆解釈を奇貨として、私は突然、日本人がどうして「憲法九条」と「自衛隊」を「矛盾している」という解釈をするのか・・・その理路が見えたので、その話をさらさらと書く。
日本人は集団的に「発狂」したのである。
だって、憲法九条と自衛隊はまったく無矛盾的なものだからである。
これが矛盾していると思っているのは世界で日本人だけである。
「憲法九条」は日本人に戦争をさせないための制約であり、日本の軍事的無害化をめざしている。
「自衛隊」は日本人にアメリカの後方支援部隊として「従卒」的な軍事的行動に限定的に利用するための装置である。
どうしてこのふたつが矛盾していると日本人は思ったのか?
まず「無害化」して、それから「従卒」として雇用する。
これは「主」の側からすればまことに首尾一貫した対日政略である。
自衛隊は「如意棒」であり、憲法九条は「緊箍児」である。
このふたつが揃っているからこそ日本は「従者」としてアメリカの役に立つ。
このふたつの「日本を支配するための道具」をどうして「両立不能な制度であると日本人は思い込もうとしたのか?
理由はもうおわかりだろう。
「日本が支配されている」という意識化することが不快な事実から目を背けるためである。
真の問題は日米関係にではなく、日本国内の身内の争いにある。日本にとって最大の政治問題は「内政問題」なのだ。それさえ決着がつけば万事うまくゆく。
私たちはそう自分に言い聞かせてきた。それが「55年体制」と呼ばれるものである。一方に自民党=保守があり、他方に社会党共産党=革新があり、この非妥協的な対立のうちに日本がうまくゆかないことのすべての原因がある。私たちはそう自分に言い聞かせてきた。
55年体制が破綻したあともこの説話原型は変わっていない。
保守と革新の対立に代わって、勝ち組と負け組、グローバリストとローカリスト、「政治的に正しい人」とナショナリスト、セクシストとフェミニスト・・・というふうに対立項はよりどりみどりだが、これらはすべて国内的なファクター間の矛盾と葛藤のうちに日本がうまくゆかないことのすべての原因があるという文型を共有している。
私たちがこれほどまでに同一の文型で語ることに固執するのは、「日本の国内的矛盾のうちに日本がうまくゆかないことのすべての原因がある」という発想そのもののうちに日本がうまくゆかないことの真の原因があるという真実から目をそらしたいからである。

日曜日は下川正謡会新年会。
素謡『弱法師』と仕舞『天鼓』の他に、素謡の地謡で『景清』、『安宅』、『鉢木』、『砧』。仕舞の地謡に『鵜之段』『玉之段』『笠之段』がついて目の回るような忙しさ。
どの曲も何度目かの地謡なので、だいぶ慣れてきた。
終わってから冷たいビールで乾杯。
下川先生と映画と麻雀の話がはずむ。
下川先生のフィルム・ファボリはクリント・イーストウッドの『ハートブレーク・リッジ』と『フーテンの寅』(シリーズ第一作)と『二十四の瞳』(高峰秀子の)である。
クリント・イーストウッド・ファンはみなさんベストに渋いタイトルを選ぶ(ワーナーのババさんのチョイスは『ブロンコ・ビリー』だったし)。私はやっぱり『ダーティ・ハリー』だなあ。
家に戻ってお風呂にはいってから、三宅先生にもらった焼酎のお湯割りを飲みながら、三宅先生にもらったカラスミを囓りながら、「KC韓流ドラマクラブ」のU野先生からお貸し頂いた『チャングム』のDVDを見る。
『チャングム』は鎌倉の鈴木晶先生が絶賛されていたので前から見たいと思っていたのであるが、涙が出るほど「ベタ」なつくりで見出したら止められない。
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