桂米朝の落語を聴きながら年賀状にネコマンガを描く。
さらさら。
一枚当たり所要時間5秒。
ネコマンガを描いて、「元気?」とか「今年もよろしく」とか「ごぶさた」とかフキダシで書き込む。
口上に芸はないけれど、ネコの顔が一枚ずつ違うのが手柄である。
250枚かける5秒とすると20分ほどで描き終わる勘定である。
勘定通りにゆかないのが難点である。
BGM米朝の落語は通販で購入したCDである。
釈老師から『百年目』をMDにコピーしたものを先般頂いた。
米朝演じる船場の大旦那のやわらかい関西弁が素晴らしい。
店を抜け出して芸者幇間と桜宮まで屋形船を仕立てて昼酒を食らっていた番頭が、その醜態を大旦那に見つかってしまう。
翌朝大旦那がその番頭を呼び出す。
あれはお得意さまのお供で・・・と言い訳する番頭に大旦那が味のある説教をする。
「時に昨日はえらいお楽しみじゃったな・・・ああ、お供かいな。いやいや、お供であれ、おつきあいであれ、ああいうときは使い負けせんようにな。先さんが五十円使いなはったらこっちは六十円、六十円使いなはったら八十円というぐらいにな。負けんようにいかなんだら、いざというとき商いの切っ先が鈍りますで。まあまあ昨日の様子では、そんな不細工な真似はしてないとは思うがな。」
この「商いの切っ先が鈍りますで」というフレーズがこの落語のハイライトである。
「切っ先」があるような「商い」のありようを尊ぶエートスは江戸前落語にはない。
『火焔太鼓』の大道具屋も『唐茄子屋政談』の唐茄子屋も商売はきちんとしているし、それなりの「商売哲学」もあるけれど、その商いに「切っ先」はない。
なるほど、大阪には紛れもなく固有の商都の文化、商人のエートスが存在するのであるなあと感心したのである。
ネコマンガを描きつつ、米朝の落語を聴き続ける。
『帯久』、『たちぎれ線香』、『はてなの茶碗』
本日は残りのネコマンガを描いて投函してから、外回りのお掃除。
それから「仕事」である。
次々と送信されてくる卒論草稿を読んで、コメントをつけて返送する。
これが15人分。
年内に書き上げなければいけない原稿が一本あって、これは昨日のうちに書き上げた。
年内に仕上げなければいけない校正が一冊分。これはほんとに今日中に終わらせないといけない。
1月16日締め切りの憲法論原稿が50枚。
仕事は後回しにして、とりあえず大晦日恒例の「今年の重大ニュース」を発表。
1)大瀧詠一師匠とついにお会いする。
これが私的重大ニュースのダントツの筆頭である。
『別冊・文藝』の「ナイアガラ特集」のために対談をセッティングしていただいた。場所は去年橋本治先生とはじめてお会いしたのと同じ山の上ホテルの奇しくも同じ部屋。
同じく30年来のナイアガラーの友、石川茂樹くんをまじえて、昼過ぎから深夜まで時間を忘れてお話しを聴き続けた。
二十五歳以降に私がもっとも強い影響を受けたのは、エマニュエル・レヴィナスと大瀧詠一の両師匠からである。
そのような恩人とふたりながら直接お会いできたということはひとりの人間として例外的な幸運という他ない。
2)多田塾甲南合気会発足(これは4月1日のこと。これまでの神戸女学院合気道会を発展的解消して名称を改めた。ドクター佐藤に事務局長を引き受けて頂いた。合気道県連にも加盟。)
3)甲南麻雀連盟発足(10月1日。土曜の合気道の稽古のあと、突然ドクター佐藤が「谷口さんが麻雀やりたがってますけど」と言い出した。江さん釈先生に携帯電話を入れると「すぐに行きます」と言う。さあ、たいへんというので、大急ぎで麻雀牌、こたつ、座椅子を買い入れたが、麻雀マットだけが揃わなかった)
個人的愉悦という点では、これが第二位。
4)教務部長を拝命。四月から管理職となり、毎朝、教務部長室に「出勤」する常勤サラリーマン的勤務形態になる。会議の数がそれまでの十倍くらいに増える。
これはべつに少しもうれしい話ではないのであるが、「本務で忙殺されている」ということを関係各位に周知徹底すべく大書しておくのである。
5)本を7冊出す。3月釈徹宗老師との共著『いきなりはじめる浄土真宗』『はじめたばかりの浄土真宗』(本願寺出版社)、4月名越康文先生との『14歳の子を持つ親たちへ』(新潮新書)、7月池上六朗先生との共著『身体の言い分』(毎日新聞社)、8月春日武彦先生との共著『健全な肉体に狂気は宿る』(角川書店)、10月『街場のアメリカ論』(NTT出版)、12月『知に働けば蔵が建つ』(文藝春秋)。『街場のアメリカ論』はゼミでのディスカッションの、『知に・・』はブログ日記の仕立て直し、あとは対談と往復書簡。
6)そのほかの仕事としては、「脱力する知性」(小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか』、光文社文庫解説)、「卑しい街の騎士」(加藤典洋『敗戦後論』、ちくま文庫解説)、「史上最弱のブロガー」(『ユリイカ』4月号、「ブログ作法」)、「ナイアガラ・ライフ30年」(『別冊文藝・大瀧詠一とナイアガラ30年史』)、『文學界』1月号から9月号に「私家版・ユダヤ文化論」を連載。『ミーツ・リージョナル』4月号から2006年1月号に平川克美くんとの往復書簡、「悪い兄たちが帰ってきた・東京ファイティングキッズ・リターン」を連載。讀賣新聞『エピス』に毎月映画評を連載。
その他、細かい原稿は数知れず・・・よく働いたなあ。
7)友人たちを鬼籍に送る。川崎ヒロ子(6月20日)、吉田城(6月24日)。
いずれも同年の友である。
ヒロ子さんは30年来の友人野崎次郎くんの愛妻。私は六甲山で行われた彼らの結婚式の司会を務めた。
吉田くんとは北大の学会のシンポジウムのあと、クラーク像の前で高校時代に知り合ってから最初で最後のツーショットを撮った。
彼の最後の仕事になった身体論の論集に寄稿を求められていたのであるが、時間が取れずについに書けなかった。まことに申し訳ない。私が書くことになっていた原稿は次のレヴィナス論には必ず収録して吉田城くんに献じるつもりである。
もうひとり赤澤清和くん。鮮やかな青年だったけれども、神々の愛でにし人は夭逝する。
8)BMW320iを購入。
七年乗ったスバル・インプレッサWRXワゴンをコバヤシさんにお譲りして(代価は松茸と山菜天ぷら「一生分」という圧倒的に有利なバーゲンである)、年来の夢であった「シャコタンのベーエム」を買う。
1987年に今鳥取大学にいる松本雅弘君といっしょにフランスをドライブしたことがあった。ヴァルラス・プラージュからピレネーを越えてバルセロナに向かうオートルートをルノーで150キロでかっとばしているとき、黒いBMWに「すっっこーん」と抜かれた。
柔らかい紙を鋭利なナイフで切り裂くような抜かれ方であった。
そのとき、私のうちの「鎮めがたい欲望」に火がついたのである。
とりあえずこれで8大ニュース。
まあ、そんなもんでしょう。
では、みなさん、よいお年をお迎え下さい。
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(2005-12-31 11:22)