『亡国のイージス』を観る

2005-12-30 vendredi

年賀状の印字が終わったので、とりあえず一服して、福井晴敏原作、阪本順治監督『亡国のイージス』を観る。
前半のタイトな畳み込みは悪くなかったが、後半のご都合主義的な収束のつけかたがちょっと・・・
でも、映画の出来不出来とは別に、「国防とはどういうことか」という戦後日本が単にメカニカルかつ数値的にしか考慮してこなかった問いをあらためて突きつけたことは高く評価したい。
この映画の中で重要な台詞がふたつある。
ひとつは、予告編でもよく使われた「よく見ろ、日本人。これが戦争だ」という中井貴一のテロ宣言のことばである。
これは日本人が「戦争」についての備えを怠っていたということを言うのではない。
軍備について言えば、日本の防衛費は数値的には一貫して世界的水準にある。
だが、「ハード面」での備えが整っているということは日本が「戦争をすることができる国」だということを意味しない。
「戦争ができる国」というはその政府が「戦争ができる」世界戦略を持ち、その国民が「戦争ができる」メンタリティーを備えている国のことである。
日本は戦争ができない国だ。
テロリストはそう言い切る。
それは軍備がないからでもないし、憲法九条が規制しているからでもなく、日本人が「戦争とはどういうものか」を少なくともこの30年間ほとんど考えずに来たからである。
「戦争ができる」というのは、一面から言えば、「自国民が死に、自国の都市が破壊される」という限定的な損害を認めた上で、それよりも「メリット」が多い軍事的オプションを逡巡せずに選択できるということである。
そこを破壊することが戦略的に重要である都市であれば、自国民もろとも破壊することを辞さないようなメンタリティーをもつ人間しか戦争を遂行できない。
原爆は米軍捕虜をも焼き殺したし、ドレスデンにも連合国の市民は何人もいただろう。
現代の日本人にそれができるか。
それは村上龍の『半島を出よ』の主題でもある。
北朝鮮テロリストに占拠された福岡の街を自国民もろとも破壊する決断をする政治家がいないせいで、日本政府は屈辱的な領土割譲に応じることになる。
「戦争ができる人間」とは、軍事的バランスシートの上ですべてを計算して、そこに「人間の顔」を見ないでいられる人間のことである。
そんな人間は今の日本にはいない。
たしかに、今の日本には、経済的バランスシートの上ですべてを計算し、そこに「人間の顔」を見ないですませていられる人間はいくらもいる。
彼らは他人が経済的に破滅することの代償に自分が利益を得ることには少しの疚しさも痛みも感じないでいられる(つい先日も、証券会社の誤発注で短時間に巨富を築いた投資家たちがいた)。
けれども、「経済的なバランスシート」と「軍事的なバランスシート」のあいだには乗り超えることのできない深淵がある。
「金を儲けたい」というのは尽きるところ個人的な欲得だからである。
「自分さえよければ、それでいい」と彼らは考えている。
日本が軍事的に危機になれば、彼らはあたふたと個人資産を抱えてカナダにでもオーストラリアにでも逃げ出すだろう。
だが、「国を守る」という行為は個人的なものではありえない。
日本が軍事的危機に陥ったときに、われさきに安全な外国に逃げ出すような人間には戦争を遂行することはできない。
ここに「戦争ができる人間」のもうひとつの条件がある。
「戦争ができる人間」というのは、「自分が死んでも、同胞を守る」覚悟のある人間のことである。
同胞を守ることの代償として自らの命を捧げることができるような「共同体への愛」を深く身体化させ得た人間のことである。
その「同胞」のうちには、彼と政治的意見を異にする人間たちも、信仰や価値観を異にする人間たちも含まれている。
そういった人々を含めて、「同胞を命に替えて守る」覚悟のある人間にしか戦争はできない。
そんな人間は今の日本にはいない。
そのような人間を形成するための制度的基盤は日本社会のどこにも存在しない。
国防の喫緊であることを熱く語っていた政治家が先日逮捕された。
この男がどれほど政治的に高邁な理想のためにそうしていたのか私は知らない。
けれども、「戦略的な思考ができない」政治家であることは小銭を稼ぐことの代償として弁護士資格を失い、政治生命を失ったという「間尺に合わない」事実から推して間違いないだろう。
しかるに、この「戦略的に思考する習慣を致命的に欠いた政治家」は日本の核武装を求め、領土問題における近隣諸国との強硬な外交を主唱する政治的運動の重鎮であった。
この事実から推して、現代日本の「国防の喫緊であることを熱く語る」人間たちの間では「戦略とは何か」ということを省察する習慣が根づいていないらしいと推論することは間違っていないだろう。
そのような人間たちに国防にかかわる議論を任せることを私は望まない。
『亡国のイージス』では、真田広之の演じる中間管理職サラリーマン的な先任伍長がファナティックで病的な愛国少年兵とコンビで日本を襲った軍事的危機を救う。
真田広之が敵にむけてためらわず銃撃する少年兵をたしなめて言う。
「撃つ前にためらうのが人間だろう。撃つ前に考えろ」
その忠告を受け容れて、動作に一瞬の「ためらい」を挟んだ少年兵は、こんどは「ためらわない」テロリストに撃ち殺されてしまう。
真田は「言われた通り、撃つ前に考えた」とつぶやく瀕死の少年兵にこう言う。
「考える前に考えるんだ」
よいことばである。
最適な戦略的選択をためらわない冷血さと同胞に対する制御できないほどの愛情という矛盾を同時に引き受け、それに引き裂かれてあることを常態とすること、それが「戦争ができる人間」の条件である。
その「引き裂かれてあること」を徹底的に身体化するというのが、「考える前に考える」ということである。
私はこのことばをそんなふうに理解した。
「国を守る」ということを多くの人は「憎悪」や「怨恨」や「競争」といったネガティヴな感情に動機づけられたふるまいだと考えている。
現に国防の喫緊であることを語る論客はほとんどの場合「怒声」を挙げて自説を開陳する。
愛国心や国防について声高に語る日本人を私が信用しないのは、彼らの多くが戦略的思考を欠いているからであるが、理由はもう一つある。
ジョン・レノンは言った。
All you need is love
これを「愛こそはすべて」と訳した人がいるけれど、それは違う。
「君に欠けているのはね、愛だよ、愛」
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