配架の愉しみと語彙について

2005-12-29 jeudi

大掃除は最終日で本棚の整理。
これは時間がかかる。
書棚のどこにどういう本を配列するかで、おおげさでなく、それから一年間のアウトプットの「傾向」が変わってしまうからである。
とりやすいところに並んでいる本はその背表紙が繰り返し目に触れ、なにげなく手に取る機会も多いので、いきおいそこに「磁力」のようなものが発生して、その磁力に感応する種類の情報や知識がふだんから無意識的に選択される。
とりあえず机の上にレヴィナスとラカンの本を並べる。
「仕事書棚」には教育、ニート、脳、葬制、時間、睡眠にかかわる本、背中は「レフェランス書棚」になるので、哲学と精神分析関係の本を並べる。
それから「自分の本」をひとまとめにしておく。25冊くらいある。
ずいぶん書いたものである。
今年は「なかよし本」というコーナーも新設する。
ジャンルにかかわらず、私が「なかよし」に認定した方々の本を並べる。
中には会ったことのない「なかよし」も、もう会うことのできない「なかよし」もいる。
平川克美、松下正己、山本浩二、竹信悦夫、難波江和英、鈴木晶、増田聡、三砂ちづる、柴田元幸、加藤典洋、銀色夏生、湯川カナ、小池昌代、名越康文、養老孟司・・・
甲野善紀先生の本は「身体論」コーナー。池上六朗先生の本もそちらにまとめる。
高橋源一郎、橋本治は「アイドル」ジャンルなので別枠。
ここには村上春樹、矢作俊彦、小田嶋隆の五人が収められているが、これに町山智浩を加えた6人がウチダの2005年度の「マイ・フェヴァリット・オーサーズ」である。
本の整理が終わるとすでにとっぷり日は暮れている。
これにて大掃除はおしまい。
あとは大晦日に外回りの掃除をして、飾り物をするだけ。
掃除をしていると、捜し物が見つかることがある。
どこにいったかな・・・と前から探していた『ことばから見える現代の子ども』という冊子が見つかった。
「エ」音のことをこの冊子で読んだからである。
みつかったので、またどこかへゆかないうちに再録して、諸賢のご高覧に供するのである。
「エ」音のことに言及しているのは渡辺恵美さんという東京の公立小学校二年生の担任の方である。
こんな話。

「私の学校は去年から児童会で、『え段を使わないようにしよう』という『やさしいことばキャンペーン』をやっています。『てめえ』『しね』など、最後がえ段になっていることばを使わないということです。家庭が殺伐として、親も含めて、そういうことばの世界だと思います。『食え』とか日常言っています。だからといって、すごい親かというと、そうでもない。しかし、そのことばは限られた小さな世界のなかで通用することであって、一歩外に出た時にその言語を使って、人間関係がつくられていくのかということも、教師のなかで心配していることです。(…)
ここ数年気にかかることは『自分のことばを引き取らない』ということです。『たぶん』、『かもね』などのことばを最後につけて、あとから追及がこないようにしています。断定で『そうです』ということばも使わないですしね。こうしたことは、家庭が学校化している子どもに多いのではないかと思います。」(『ことばから見える現代の子ども』、日本作文の会、百合出版、『作文と教育』55巻7号、2004年、8頁)

私は京大の集中講義の途中で、この「え段」の逸話を思い出して、「え段」が教室でドミナントな音韻になったら、それは学級崩壊のシグナルである・・・というようなことを申し上げたが、これは少し先走りしすぎた発言であって、渡辺先生はそこまでは言っていなかったのである(「受け売り」はつねに強度を増して再現される)。
それにしても、この渡辺先生という方はたいへんするどい観察眼をもっておられて、この教員たちの座談会の中でも、彼女の現場報告のなかには「どきっ」とする指摘が多い。
さらに採録。

「今の学校の子どもたちも共通しているのですが、低学年の語彙の少なさを感じます。『むかつく』と言えば、それで済んでしまう。この年ではこの程度は知っていなければならないと思うことばが、なかなか子どもたち全体のものになっていない。
ことばを考えると、単語が飛び交っている生活言語と、学習言語があると思います。生活言語の範囲がすごく狭くなっている。生活に困らない程度の単語の数だから、情感を表すようなことばが減ってきている。親子関係もあまり情感のない関係になってきているのではないかとも思えます。
たとえば、学校にはたくさんの行事がありますが、参観した親からいろんなことを言ってもらえるんじゃないかなと私などは思います。
次の日に聞くと、『何も言われなかった』と子どもたちは言うのです。その子は言われたことを忘れちゃったのかと一時は思っていましたが、親が何も言わない、運動会が終わっても、運動会のことが全然話題にならない家庭があります。情感を養う部分が生活のなかで薄くなってきているから、そこを獲得できないのかなと思います。」(同書、12頁)

これもまことに重要な指摘である。
子どもの語彙の貧困は、その子どもの生活圏でゆきかう言語の貧困をそのまま映し出している。
それは子ども自身の責任ではない。
日本語が痩せているということがすべての問題の底流にある。
それはメディアに執筆しているときに痛感することである。
私の原稿はしばしば「むずかしい漢字が使ってある」とか「なじみのない外来語が使ってある」という理由で書き直しを命じられる。
私は原則として修正に応じない。
「読者に読めない漢字があってはメディアとしては困るんです」と言うけれど、そのロジックを受け容れてしまうと、メディアはその読者のうち「最低のリテラシー」をもつものの水準に合わせて使用言語を絶えず下方修正しなければならなくなるからである。
現にそうやって戦後日本のメディア言語は痩せ細ってきた。
例えば、「語彙」ということばを使わせてくれないメディアがある。
これは「語い」と書かなければならない。
私は「語い」とか「範ちゅう」という表記を見ると、肌に粟を生じる。
そういう文字を見ても「平気」というような言語感覚の人間が使用文字について公的な決定権を持っている。
以前に「はなもひっかけない」と表記した原稿を「身体部位の欠陥かかわる表記はやめてください」と差し戻されたことがあった。
「はなもひっかけない」というのを「鼻が低いので、ものがひっかからない」という意味だと解釈したせいらしい。
「はな」は「鼻」ではなくて「洟」である。
「はなみずもひっかけてもらえないくらいに、てんで相手にされない」という意味である。
その程度の語彙さえ持たない人間が言語表記について適否の判定を行っている。
「片手落ち」という表記も「身体障害者差別になるから」と拒否されたことがあった。
私がよく使う「短見」というのも「視覚障害者差別になるから」という理由でいずれ拒否されるだろう。
「狂人」や「白痴」や「気違い」などの語はそもそもATOKに登録されていない。
「政治的に正しいことばづかい」をメディアや文科省は久しく唱道してきた。
そのこと自体に文句はない。
けれども、それはただ「使える言葉をひたすら減らす」というかたちでしか行われてこなかった。
「美しいことば」「響きの良いことば」「意味の深みをたたえたことば」を増やすという方向には、戦後日本のメディアも教育もほとんど何のアイディアも持たなかった。
日本語の痩弱に歯止めがかからないのは、「ことばなんかいくら使用制限しても日常生活に少しも不便はない」という(渡辺先生のいう)「生活言語」の全能への信仰が現代社会に瀰漫しているからである。
「瀰漫」と私はよく書く(カンキチくんは「びまん」という読み方が最初はわかりませんでしたと正直に告白していた。今は読めるということは、ちゃんと広辞苑をひいたということである。よいことである。次に奨学金が入ったら、白川静先生の『字通』を買いましょう)。
これもおそらくメディアに投稿したら「び漫」と直されてしまうのであろう。
けれども、「瀰漫」は「蔓延」や「波及」や「一般化」とはニュアンスが違う。
どのような他の語をもってしても「瀰漫」の語のはなつ「瘴気」に類したものは表すことができない。
この「瘴気」だってそうだ。
「毒気」では言い換えることができない。
これを「しょう気」と書き直されたとき、誰がその原義にたどりつけるであろうか。
でも、そのようにして、メディアは日本語の語彙を減らすことに全力を尽くしている。
それは「最もリテラシーの低い読者」の読解力に合わせて無制限に下方修正を繰り返すということを意味している。
その結果が、現在の索漠たる言語状況である。
勘違いしているひとが多いが、「現代人は情感が乏しいので、情感を表す語彙が貧困になった」のではない。
「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のである。
ことの順逆が違うのだ。
言語の現実変成能力がどれほど強力なものか、それをほとんどの日本人は理解していない。
とりわけ理解の遅れた人びとが現代日本の「国語」を宰領している。
私がメディアからの寄稿依頼を断り、それに倍する量の文字をブログに書き付けているのは、ここには「使用語彙の制限」がないからである。
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