お掃除するキャッチャー

2005-12-27 mardi

煤払い二日目。
今日は寝室、廊下、トイレ、洗面所、風呂場の掃除。
寝室は別にそれほど散らかっているわけではないが、絨毯に綿埃が目詰まりしているので、それを歯ブラシでこそぎ出す。
床にぺたりと腰を下ろしてビーチボーイズの『ペットサウンズ』を聴きながら、絨毯を小さな歯ブラシでそぎそぎする。
もう年の瀬なのね・・・
となぜか「おんなことば」になる。
どういうわけか知らないが、大量のアイロンかけをしたり、老眼鏡をかけて半襟をさくさく縫いつけたり、総じて「床にぺたりと腰を下ろして」家事をしていると気分が「母」になる。
ふう、とつくため息もなぜか湿気を帯び、針仕事の針は無意識に髪の毛の脂を探り、疲れてくると片手が襟元に延びて軽く衣紋を抜くしぐさまで、どこから見ても『麦秋』の杉村春子か『晩春』の高橋豊子である。
いつのまに私の中にこのような身体運用の「文法」が刷り込まれたのであろう。
この家事労働をつうじて生じる身体的なジェンダー・シフトはフリー・フォールするエレベーターの落下感に似たものがあり、「母」になった私は世俗のくさぐさのことが急にどうでもよくなってしまう。
その「わしどうでもええけんね」感を私は深く愛するのであるが、この「母っぽい気分」が好きという家事の身体感覚をわかってくれる男性は少ない(私の知る限り、鈴木晶先生くらいしかいない)。
寝室からずるずると平行移動して、次はトイレと洗面所の床を磨く。
遠目でみるときれいな洗面所の床も、隅の方には綿埃と髪の毛と洗剤の粉が凝固したかなりタフなゴミが付着している。
そぎそぎ。
『エマ』を読むと、こういう「雪かき」仕事はぜんぶ「メイド」がしている。
ご主人さまたちはご飯をたべたり、葉巻を吸ったり、散歩をしたり、情事に耽ったりしている。
だが、こういう仕事をまったく経験しないまま一生を終える人間は、「何か」に触れ損なったことにはならないのだろうか。
家事は「シジフォス」の苦悩に似ている。
どれほど掃除しても、毎日のようにゴミは溜まってゆく。
洗濯しても洗濯しても洗濯物は増える。
私ひとりの家でさえ、そこに秩序を維持するためには絶えざる家事行動が必要である。
少しでも怠ると、家の中はたちまちカオスの淵へ接近する。
だからシジフォスが山の上から転落してくる岩をまた押し上げるように、廊下の隅にたまってゆくほこりをときどき掻き出さなければならない。
洗面所の床を磨きながら、「センチネル」ということばを思い出す。
人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。
家事には「そういう感じ」がする。
とくに達成感があるわけでもないし、賃金も払われないし、社会的敬意も向けられない。
けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと、人間的秩序は崩落してしまう。
ホールデン・コーフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。

「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子どもをさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」(J・D・サリンジャー、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、2003年、287頁)

高校生のときにはじめてこの箇所を読んだとき、私は意味がぜんぜん分からなかった。
何だよ、その「クレイジーな崖っぷち」っていうのはさ。
でも、それから大きくなって、愛したり、憎んだり、ものを壊したり、作ったり、出会ったり、別れたり、いろいろなことをしてきたら、いくつかわかったこともある。
「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対必要だ、ということもその一つだ。
「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからないからである。
崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶんほとんどの子どもは「ありがとう」さえ言わないだろう。
感謝もされず、対価も支払われない。
でも、そういう「センチネル」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。
ときどき「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。
適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。
家事はとても、とてもたいせつな仕事だ。
家事を毎日きちきちとしている人間には、「シジフォス」(@アルベール・カミュ)や「キャッチャー」(@J・D・サリンジャー)や「雪かき」(@村上春樹)や「女性的なるもの」(@エマニュエル・レヴィナス)が「家事をするひと」の人類学的な使命に通じるものだということが直感的にわかるはずである。
自分でお掃除や洗濯やアイロンかけをしたこともなく、「そんなこと」をするのは知的労働者にとっては純粋に時間の無駄なんだから、金を払って「家事のアウトソーシング」をすればいいじゃないか・・・というようなことを考えている「文学者」や「哲学者」たちは「お掃除するキャッチャー」の心に去来する涼しい使命感とはついに無縁である。
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