捕虜と戦陣訓

2005-12-25 dimanche

今朝の毎日新聞によると、第二次世界大戦中に日本を空襲した爆撃機に搭乗して捕虜となった米英軍兵士583人のうち母国に帰ることなく死亡したもの少なくとも254人。うち処刑されたのが117人。その大半は軍律裁判抜きのものであった。
飛行機の不時着や落下傘での着地直後に殺された者15,傷病で回復の見込みなしとして毒殺されたもの15人、友軍の爆撃や原爆投下で死んだ者64人。
この数字をどう解釈すべきか、しばらく考えた。
しばらく考えたのには理由があって、つい三日前に『大脱走』を見たばかりだからである。
『大脱走』は実話に基づく冒険活劇映画であるが、これはドイツ軍の占領地域に不時着、墜落した米英軍空軍兵士たちだけを収容した捕虜収容所の話である。
映画の冒頭で、脱走組織のボスであるビッグXことバートレットが親衛隊とゲシュタポから空軍に「移管」される場面がある。
そこで、収容所のルーガー空軍大佐とゲシュタポの取調官の管轄権についてのきびしいやりとりがある。
空軍兵士の捕虜は空軍が管理する。
空軍兵士捕虜の扱いについてはたとえ親衛隊やゲシュタポといえども容喙を許さない、とルーガー大佐は断固として彼らの介入を退けるのである。
なるほど、そういうものかと私は子供心にずいぶん感心した覚えがある。
同国人よりもむしろ敵国の兵科を同じくする軍人の方に親近感を覚えるというのは考えてみればありそうなことだ。
ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』は第一次世界大戦のフランス人捕虜を扱った物語である。
この中ではドイツ人の貴族(フォン・シュトロハイム)が、同国のドイツ人の無学でがさつな軍人たちよりもむしろ自分と同階級に属するフランス人の貴族(ピエール・フレネ)の学識と趣味に対して深い親近感を示すという「倒錯」が物語の縦糸になっている。
おそらくそれに類する「国境を越えた同種意識」というものがヨーロッパには伝統的に存在するのであろう。
もしかするとEUというような政治構想が可能なのはそのせいかもしれない。
EUの原形的なアイディアはすでにオルテガが1930年に書いた『大衆の反逆』の中で素描しているが、こういうことは「私と同じ程度に理性的に思考できる卓越した知性」とは国境を越えて連携可能であるという確信がなければ思いつくものではない。
フランス語には République des Lettres(学知の共和国)という言葉がある。
学問のある人間たちは国境を越えてラテン語で自由にコミュニケーションすることができた中世以来の知的ネットワークを指していう言葉である。
ヨーロッパにおいては、伝統的に「階層の差違/知性の差違/趣味の差違」はしばしば「国境線」以上に強固であり、排他的であった。
東アジア共同体(AU)がもし可能であるとすれば、やはりこのEUモデルを踏襲するしかないと私は思う。
だが、アジアの場合はどうやら、それは「国境を越えた金持ち同士の利害の一致」の方が「同国の貧乏人に対する同郷意識」よりも優先するというかたちを取る他ないように思われる(残念ながら、アジア諸国を見渡しても Hommes de Lettres「知識人」が国政を領導しているような国民国家はどこにもないからである)。
だから、来るべきAUは République des Bourses「財布の共和国」というようなものになるであろう。
それでも戦争よりはよほどましであるが。
閑話休題。
『大脱走』で驚いたのは、この戦争が奇妙な「ルール」によって律されていたことである。
ルーガー大佐の「おとなしく終戦まで快適な捕虜生活を楽しみたまえ」という忠告にイギリス空軍のラムゼイ大佐は「かなう限り脱走を企て、できるだけ多くの敵兵を捕虜の監視と追跡のため割かせて、前線に配備する戦力を減殺せしめることこそ軍人の本務である」ときっぱりと拒絶する。
脱走計画の起案と実行そのものは、いかなる意味でも「逸脱」ではなく、正規の軍務日課の遂行として観念されているのである。
だから、脱走者たちが親衛隊に銃殺されたと聞いて、ルーガー大佐はラムゼイ大佐以上に落胆する。
脱走の企てとその阻止はこの二人の高級軍人の頭の中では「想像的な戦闘」として展開していたからである。
これは彼らの間での「ルールに則ったゲーム」だったである。
麻雀をやっている時に私が江さんに「ロン、西ドラ6」と言われて逆上し、台所から出刃包丁を持ち出して刺殺するのはあきらかに「ルール違反」である。
江さんが死んでしまうと次の半荘に入れないからである。
いっしょに卓を囲んでいる釈先生もドクターも「ウチダ先生、それはないでしょ」とお咎めになることは必定である。
親衛隊の所業はそれに類する「ルール違反」のようにルーガー大佐の目にはおそらく見えたのである。
スティーヴ・マックイーン演じるヒルツ空軍大尉があれほど大暴れしながら、命を長らえることができた理由はひとつしかない。
それは敵国領土内でアメリカ軍の記章を携行していたからである。
スイス国境の鉄条網でバイクごと転倒したヒルツが起きあがって、シャツの襟の記章を示しながら「ヒルツ大尉」と偉そうに名乗るのは、この小さな金属片が象徴する「軍装」の記号によって、彼の生命がウイーン条約で保護されることを彼が知っていたからである。
逆に、偽造パスポートを所持し、軍服を脱ぎ捨て、記章を棄てて、民間人に変装していた捕虜たちはスパイ容疑で容赦なく銃殺される口実を提供したことになる。
ヨーロッパ人たちは、現に殺し合いをしていながら、それでもなお「タンマ」が効くようなルールを当事者が共有している。
少なくともそのようなルールがあった方が「負けたとき」に困らないという点についての合意がひろく成立しているのである。
欧米の戦争観と日本人の戦争観はその点において根本的に違うのように思われる。
日本の軍人は自分が「負けたとき」や「捕虜になったとき」にどういうふうに遇されたいかということも勘定に入れて戦争のルールを決めるというようなことを思いつかなかった。
戦陣訓に言う。

「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」

「負けるのは恥ずかしい、だから負けない」というのは「適切な負け方」を全く考えないということである。
戦陣訓の他の箇条も徴候的である。

「第六条・攻撃精神」はつぎのようである。
「凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし(略)」
「第七条・必勝の信念」
「必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。」

勝つぞ勝つぞと呼号するのはいいけれど、戦争は勝つ側と負ける側があるから戦争になるのである。
「百戦百勝」というのは病的妄想である。
歴史上「百戦百勝」であった軍隊などひとつも存在しない。
であれば、帰納法的な推論ができる知性があれば、この戦陣訓は「祈り」ではありえても、戦闘のためのマニュアルとしては機能しないことはすぐわかるはずである。
この文章は日本軍が「かつて一度も存在したことのない軍隊」でありうることの蓋然性の証明のためには一語も費やしていない。
その結果何が起きたかについてはルース・ベネディクトがその『菊と刀』で活写したとおりである。
百戦百勝のはずの日本軍は実際には局地戦ではぼろぼろ負けた。
戦争なんだから負けることがあるのは当たり前である。
別に恥ずかしいことでもないし、それで世界が瓦解するわけでもない。
『大脱走』の諸君のように、捲土重来を期せばよろしいのである。
しかし、日本軍の捕虜たちはそうはしなかった。
彼らは捕虜になったとたんに人格を一変させてしまったのである。
ベネディクトが驚いたのは、これほど「勝者に媚びる捕虜」たちを見たことがなかったからである。
捕虜たちは嬉々として自軍の内情、兵の配備状況をことこまかに具申し、中には米軍の偵察機に同乗して、「あそこが弾薬庫で、あそこが司令部です」と逐一報告した兵士さえあった。
この変節の理由は簡単である。
戦陣訓がいうとおりに「勝敗は皇国の隆替に関」するというのがほんとうなら、皇軍が負けるということはイコール「皇国は滅亡した」ということである。
ならば皇軍を打ち破った軍隊こそが「百戦百勝の新たなる皇軍」であることは論理の経済が私たちを導く合理的結論である(現にその論理に従って、日本は戦後60年間アメリカに仕えてきたではないか)。
「いや、勝敗というのは最終的勝敗ということであって、局地戦で一度や二度負けたくらいのことで皇国の隆替にかかわってたまるものか」という言い分もあるかもしれない。
だったら、はなから「百戦百勝」などということは書かない方がよかったのである。
「百戦百勝」しないと「皇国の隆替」にかかわるなんて書いてしまったから、それを真に受けた軍人たちは「一敗」しただけで、ああ皇国は終わった・・・と思ってしまったのである。
米英軍の捕虜を殺害した人々のメンタリティもおそらくそれと同質のものと思われる。
彼らが捕虜となっているのはテンポラリーな戦況の中でおきた「たまたまの出来事」であって、局面が変われば、捕虜交換があるかもしれないし、条件つきでの本国送還もあるかもしれないし、ことによると「捕虜虐待」で国際法上の罪に問われるかもしれないし、自分だって敵地で捕虜になる可能性だってあるし・・・というふうにリーズナブルに思考することができれば、捕虜を殺すことについても強い心理的規制がかかったはずである。
そのブレーキが利かなかったということは、この捕虜殺害にかかわった諸君の多くが「日本は絶対負けない」と思っていたということである。
でも、日本は負けた。
というか、そんなふうに思っている人間があまりに増えすぎたせいで負けたのだと私は思っている。
戦争についてのルールを作るのは、勝つためではない。
負けたときにあまり不愉快な思いをしないですむように、人間はルールを作るのである。
そして、お忘れの方が多いようだが、「勝負」というのは「勝ったり負けたり」するものではなく、ほとんどの場合「負けたり負けたり」するものなのである。
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